平成二十四年十一月十六日から十八日にかけて、葛城修験二十八宿巡峰修行を執行した。
本宗では昭和五十四年に執行して以来三十三年ぶりの修行となるため、当時を知る先達が少なくなったこともあり道程調査は困難であったが、真言宗犬鳴山七宝龍寺、聖護院門跡各宗派のご協力と、福家俊彦教学部長先導による事前現地調査により無事執行することができた。
当日は、本宗教師二十五名と犬鳴山七宝龍寺から膾谷師始め八名の修験者が参加され、友ヶ島序品窟(第一経塚)から中津川アラレ宿(第七経塚)までの二泊三日を第一行程として修行した。
本宗の参加者は下記の通りである。
修験検校代理
平成二十四年十一月十五日(木) 晴れ
翌日の出発に備え、修行者は夕刻に宗務本所へ集合。座間光覚検校代理から入峰の心得・注意事項などの説明あり。
十一月十六日(金) 晴れ
午前五時起床。出発準備をし、午前六時に三井寺山内諸堂巡拝、出発。 午前九時、金輪寺(四の宿本尊安置)到着。御住職よりお持てなしを受ける。 午前十時、加太港到着。午前十一時の船にて友ヶ島へ向かう。前日と翌日は天候が悪く、欠航の心配があったが、当日は晴天であり、波も穏やかであった。潮の干満のため滞在時間が限られており、足早に第一経塚へ向かう。午後零時半、序品窟(第一経塚)到着。 午後三時半、友ヶ島港出発。午後四時、特別に阿字ヶ峯行者堂を開扉頂き、勤行。引き続き淡島神社にて道中安全祈願。 午後五時半、向井家(役行者迎之坊)到着。像特別拝観、お持てなしを受ける。 午後六時、西念寺(二の宿本尊安置)到着。勤行後、御住職、壇信徒の皆さんよりお持てなしを受ける。午後七時宿泊先到着。
十一月十七日(土) 雨
前日とうって変わり雨となる。午前三時半起床。午前四時出発。 午前五時半、高仙寺(役行者母公の墓)参拝。特別に御堂を開扉頂く。早朝にも関わらず御住職、壇信徒の皆さんよりお持てなしを受ける。 午前八時、飯盛山頂。このころより特に雨、風が強まる。 午前十時半、大福山(第三経塚) 午後三時、籤法嶽、滝畑音無しの瀧を経て山中渓境谷(第四経塚)到着。滝畑集落の皆さんよりお持てなしを受ける 午後四時、根来寺到着。諸堂参拝。午後五時宿泊先到着。
十一月十八日(日) 曇り
前日ほどではないが、曇りがちの天気となる。午前三時半起床、午前四時出発。 午前五時半、倉谷山(第五経塚)遥拝。午前八時、志野峠・松峠(第六経塚)到着。 午前九時半、中津川アラレ宿(第七経塚)到着。 午前十時半、中津川行者堂(葛城潅頂の地)到着。お世話をされている皆さんにお持てなしを受ける。 午後零時半、前鬼熊野神社、檜木宿を経て粉河寺到着。諸堂参拝。 午後三時半、神福寺跡(第二経塚)到着。 午後六時半、三井寺到着。諸堂巡拝。
以上
「葛城入峰修行」 伊矢野慈峰(東京)
葛城入峰修行とは、紀伊・和泉・河内・大和の四ヶ国、即ち、和歌山・大阪の府県境を東西に走る和泉山脈と、大阪・奈良の境に連なる金剛山脈の峯々を行場とする修行である。その距離二十八里と称され、西は和歌山の友ヶ島より北は奈良の明神山(卒塔婆峰)に至る。
この峰中に、役行者が法華経二十八品(章)を埋納した経塚があり、葛城二十八宿とよばれる。またこれらを中心として行所がある。
行所とは友ヶ島では観念岩屋、胎内クグリ、閼伽井、深蛇ヶ池、剣の池、地蔵等が行記に書かれてあり、序品の経塚を中心として、行(オコナヒ)をする所、作法や勤行を行った所である。これらの所には、様々な故実来歴があったであろう。古くは二十八宿において百以上の行所があったが、残念なことに現在多くが不明になっている。
この様に、二十八宿、二十八経塚、あまたの行所が伝えられているが、鎌倉初期の「諸山縁起」よりも「葛城峰中記」の方が詳細に書かれている。この峰中記は、室町初期の若王寺千勝院鎮永大徳の記録に基づき、元禄十三年に永亮正大先達が三十七日間の葛城修行を行い書かれたものという。葛城入峰の盛んであった様は、この記を見てもうなずけよう。
本年(平成二十四年)天台寺門宗は、葛城入峰を執行した。葛城山は古来修験の山として、役行者はもちろん多くの験(げんざ)者が修行し、承和三年(八三二)には七高山の一つとして阿闍梨が置かれ毎年二度の悔過(けか)を行った。
のちに、大峰が胎金両部の密の峰というのに対し、葛嶺修行は法華二十八品の顕(顕教)の峰とされ、修験を志す者の必須の修行とされた。葛城修行が大峰修行と異なる所は法華経が女人成佛を説くからであろうか、女人禁制を大峰のようにはいわないことである。
さて、この葛城入峰は、江戸後期には廃れていた様で嘉永二年(一八四九)七宝龍寺の智航大徳が書かれた『葛嶺雑記』では、「葛城峰中記」に比べて行所の記述が少ない。葛城入峰修行が退転していた証左であろう。
本宗において葛城入峰修行は、昭和三十一年に当時の宗務総長、中村鍵寿師等により再興された。和三十一年度全行程を踏破し、倉谷山にて第五薬草喩品の経塚を発見されたという。
また、昭和三十三年には、一宗の希望者を募り、十月八日より八日間修行し、①二十八ヶ所の経塚の大凡を確認、②盗まれまた失われた経塚に銅製の箱に妙経二十八品を入れ埋納、③掘られていた三ヶ所の経塚を再築、④峰中経塚の所や由緒の宿・行所に桧木碑伝六十枚奉納、という成果を成し遂げた。
昭和三十四年は、伊勢湾台風のため中止。次の三十五年からは行程を二つに分け、二年で全行程の修行が行われた。日程は十一月一日より六日間。特筆すべきは、女性教師が入行したことである。
三十六年は、十月二十日より二十六日迄、後半の修行が行われた。この時、この時、最後まで不明の方便品第二の経塚が発見されたという。まさに、役行者、智証大師、仏天の御加護であろう。
更に昭和五十四年には、吉野・葛城の入峰が行われ、吉野蔵王堂宝前にて採灯の後、山上前鬼組と葛城組に分かれ修行が行われた。葛城組は吉祥草寺、葛城山上、転法輪寺、葛城神社、観心寺、牛尾経由で和泉葛城登山、粉河寺、西之庄西念寺、友ヶ島、根来と巡り本山に帰着した。これらは、何れも二十八品より序品という逆峰的コースであった。
このたびの修行は、三年に分け、序品より修行する順のコースで行われた。平成二十四年十一月十五日、本山集合。明けて十六日午前五時半、唐院前参集。長吏猊下を始め一山の諸大徳と駆入りの御法楽を済ませバスで三井寺を出発した。晴天に恵まれ午前九時に泉南郡岬町孝きょうし子金輪寺に到着する。この寺は普照山金輪寺といい黄檗宗の寺で、小高い丘の上の瀟寂なたたずまいの精舎である。本尊は釈迦牟尼仏で、二十八宿中、四の宿飯盛山千間寺の本尊が移されている。根来寺寄りの峰中の寺々は豊臣秀吉の根来攻めでほとんどが焼かれたため、本尊等は里に下り供養されている。この釈尊もそのような御仏のおひとりである。御住持と奥様がお茶を接待して下さった。
次に加太の港より友ヶ島に渡るのだが、船待ちに時間があったため、予定にはない加太の行所、阿布里寺跡に向かった。山路にバスを止め少し下った所に、不動・弁天等の社がある。勤行を終え、今回峰中を案内して下さった浅村朋伸氏より頂寧な説明を聞く。また道路の上の開発工事をした所に、昔の寺跡があったであろう事など、興味深く拝聴した。
加太の港より乗船し、犬鳴修験の膾谷健眞師一行と合流する。(諸先達には、何かと御世話になりました。御礼申し上げます。)
乗船後、今日が本年最後の出航、今日をはずすと来年まで船が出ない事、荒天で波が高いと出航できず、昨日も天気の関係で船がでなかった由承る。仏天に感謝することしきり。
友ヶ島に着き島の反対側に回る。途中左手に小島有り。神島といい、少名彦名(すくなひこな)の神を祀り、淡島明神の奥の島であるという。又この島の剣池から神剣が出たと伝えられる。島を巡りながら、道を右手に下り、深蛇池へ。古くは海に続いていたという。ススキやシダが繁っていた。何に用いたか不明の八十センチ程の石蓮華が二個あり。行記に「此の所極秘所」とある。ちなみに友ヶ島は、沖ノ島、虎島、神島の三島からなり、虎島に渡るには、干潮の時、岩をつたって渡るのである。虎島の手前に、閼伽井の碑があるが、実際に井戸はない。ここも行所である。
海を渡り、昼食後海辺に沿って島の三分の一程度回る。胎内クグリの岩の裂け目の中に序品の経塚石碑がある。この岩屋を序品窟という。行記に「此所は随一の秘所、可秘」とある。さらに島を回ること三分の一、大岩壁の下に出る。上より綱を下ろしてそれを頼りに登る。下は海・・・。
し登ると、足元の岩に文字が彫ってある。横八米、縦四米程の石額、五所額という。「殺生穢悪を禁ず。友ヶ島五所、観念窟、序品窟、閼伽井、深蛇池、剣池、寛文五巳酉雕、李梅渓、奉命書」。と刻んである。また岸壁を登ると右側に観念窟。窟中に入り外を見れば、海・海。絶壁のトーチカから海を見るようだ。
頂上に着き、人心地つく。役行者像あり。山を下り、また海を渡り沖の島に戻る。船着場に到着し船にて加太港へ。
海なし県育ちの私としては、海の行場と山の修験を結び付けるのが感覚的に難しい。加太に着き、行所である阿字ヶ峰の行者堂を拝す。行記には「岩屋にて行ひ有」とある。石段を下りて加太の街中を通り淡島神社へ。神主の祓を受ける。人形が沢山あり、独特の雰囲気である。
次に向井家に行く。この家は役行者を御迎えして以来、迎之坊(むかえのぼう)と呼ばれ葛城修行人の宿という。門に旗を立て提燈に明かりを灯し、役行者宝前に御膳を供え、われわれ三井一門を迎えて下さった。古への行者達になった様でとても有難く、役行者様に全員で御法楽を申し上げた。すでに日が暮れて外は暗く肌寒いが、心はとてもあたたかい。
迎之坊を出てまだ今日中に二の宿、西の庄西念寺に参らねばならない。西念寺に着いたのは五時半くらいであったが、驚いたことに、西念寺の御檀家衆が三十人程門前で迎えて下さった。行が廃れつつある世の中であるが、今も役行者様を信じる方々が多勢いらっしゃる。葛城講が、今でも葛城修行の行者を迎えて下さる。何と役行者様の御威徳の高きことかと、涙の出る思いであった。この西念寺は、西山浄土宗の寺で、二の宿神福寺の十一面観音を祀る。本堂のわきに観音堂があり、本尊の左右に役行者尊像を安置してある。左方の御像は珍しいことに、左膝を立てた御姿であった。かくして長い一日が終わり旅舎に草鞋を脱いだのである。
明けて十七日、朝四時に加太を出発。バスが下りて百数十段の階段を登り高仙寺の御堂に着く。この寺は古くは真言宗のお寺であったが、江戸中期より現在の曹洞宗になったという。江戸期は聖護院・三宝院の護摩所で、飯盛山千間寺の西塔といわれ、役行者が母公の供養に彫った十一面大士を祀る。この寺に母公の墓がある。行者の孝心があまりに厚いので、この地を孝子と名づけたそうである。早朝暗いうちから、御住職や檀家の方が迎えて下さった。御法楽ののち急山路を登り、峰を行くこと二時間、千間寺跡に着き朝食。この日は出発時から雨が降り出す。大雨になるとの予報通りである。朝食後に、二時間半程雨の中を行軍、大福山に着く。ここは第三譬喩品経塚、福聚童子の住所である。懺法岳を経て井関峠へ。(墓の谷、役君母公の墓あり遥拝。)歩き続け午後一時頃落合に着く。雨足さらに強く風速九米、まるで嵐である。唯々役行者を念じて歩く、歩く。やっと村に近づくと社があり御法楽。この社の御神体は滝、神さびた御社である。その後、中山王子近くの御宅に着き、熱いお茶を戴く。法華経化城喩品の化城ではないが、行者一同よみがえる心地がした。有難い熱いお茶、心から感謝のひと時であった。中山王子を経て、バスで第四信解品の経塚に向かう。山を少し上った所で経塚の他に何もない。宿着王子の住所という。中山は、昔、熊野詣での要所だったので、このところもかつては賑わったのかもしれない。
大雨の中、根来寺に参拝、大寺である。高野と争ったのに、思いのほか高野に近い。興教大師の御廟の大きいことに驚いた。二日目は根来寺門前で入宿(入旅館)した。
十八日、朝四時に根来を出発、四時二十分頃土仏峠を経てまだ暗い五時半過ぎ、碑伝を打ち、倉谷山第五薬草喩品経塚を遥拝、今畑多聞寺跡に向かう。ここは、昭和三十年頃は人の住む村であったという。多聞寺の古堂の脇に白社があった。朝食後、中畑の村に着く。来迎寺を拝し、反対の山に向かい九頭龍王を遥拝する。本日の天気は良好だが、龍神に行中雨のない様祈る。少し下り、バスにて神通畑を経て、万灯谷入口に着き、そこから山に入る。志野峠を少し下った所に授記品第六の経塚、石を積み、古風な塚である。それより十数分歩くと松峠。同品の経塚がある。これは昭和三十六年に三井寺が建てたもので、峰中記に「松尾宿、西持経者、授記品第六」とあることから、松峠のこの地をトしたのであろうか。また志野峠に戻り一時間半程歩き、中津川、アラレの宿、第七化城喩品経塚に着く。道路わきの分かり易い所にある。御法楽終わり山を下ること四十分、中津川前鬼谷熊野社背後の山上にあった七越寺(七興寺)の行者尊を、寛永十四年にこの堂に移したという。この村は大峯と同じように五鬼五家の住居する所で、その子孫は今に続いている。
中津川は葛城中台といい、葛城潅頂の地である。当日は、紅葉陽に照り映えうるわしく、曼荼羅界会の諸尊影向を観る思いであった。接待の蜜柑を頂き下山。車で桧木宿を拝し、粉河寺へ。本山旗を先頭に、立螺勇ましく本堂を拝し、役行者尊を特別に御開扉して頂いた。根来に戻り昼食。ここで犬鳴修験の諸先達と別れ、神福寺跡の第二方便品経塚を拝し、三井寺に向かい帰路についた。
六時過ぎ本山着、雨が降っていたため、諸堂巡拝はせず、宗務本所にて御祝いの御斎を頂く。長吏猊下には親しく御臨席賜った。(このたびの葛城入峰では、座間宗務総長を始め本山の皆様方にはお世話になりました。また準備や下見等、大変な御苦労だったと推察いたします。本当に有難うございました。)
「葛城修行に参加して」 西坊信祐(滋賀)
本年、葛城修行が三十五年ぶりに復興されました。復興にあたり、福家俊彦教学部長や浅村氏が資料整理や下見を何年もかけて繰り返し、私もそのご努力の一端を知っていましたので、復興され参加させて頂けたことをとても光栄かつ嬉しく思いました。お二人と、その他復興に携わった方々に、この場を借りしまして深く御礼申し上げます。
復興第一回目の修行は、第一経塚(友ヶ島)から第七経塚(粉河寺)までの行程でした(全三行程の内)。事前に、誰もが気軽に参加できるコースだと聞いていましたが、私にとりましては、初日の友ヶ島海沿いの岩場や断崖絶壁は緊張感無しには進めない難所でしたし、二日目の高仙寺から飯盛山、大福山、懺法獄を抜ける山道は暴風雨も重なり楽に歩ける道ではありませんでした。普段の自分なら弱音を吐いていたかもしれませんが、今年度は犬鳴山との合同修行ということもあり、良い意味で刺激を受け、絶対に負けるものかと、辛いところでも踏ん張ることができたのは大きな成果だと思っています。
また、修行は山中だけを巡礼するのではなく、途中、村や集落を通り抜け、街中の史跡へも参拝し、行く先々で様々な人との交流があったことも印象的でした。初日に訪れた二之宿西念寺様では檀信徒総出でお出迎え下さり、二日目朝に訪れた高仙寺様ではまだ陽が昇っていない時間であるにもかかわらず住職がお迎え下さり、役行者の母親の墳墓になど丁寧に説明して下さりました。道中すれ違う人は行列に合掌し、中にはお茶を接待して下さる方もいました。疲れた時の一杯のお茶は本当に美味しく、体も癒され、人同士の繋がりや思いやりの大切さを改めて勉強させて頂きました。こうした、人達との交流は大峰修行では体験できなかったことで、葛城修行の最大の特徴だと思います。来年も是非参加したいと思っています。
「葛城修験二十八宿巡峰修行に参加して」 大西榮照(香川)
まず始めに、今回宗祖智証大師生誕一千二百年慶讃大法会の記念事業である「葛城修験二十八宿巡峰修行」の記念すべき第一回目に参加させていただき、誠にありがとうございます。およそ三十五年ぶりに執行されるとあって、私はとても期待していました。
出発前の夕方、宗務本所で今回参加される方々から祖父の話を聞かせていただきました。今の私には、祖父に追いつくことはまだまだですが、話を伺ううちに今回の修行にかける意気込みがますます強くなってきました。
初日、加太港で犬鳴山の方々と合流し、友ヶ島へ向かいました。友ヶ島は想像よりも小さく、道もしっかりして歩きやすかったです。友ヶ島についてあまり知らなかったのですが、途中で浅村さんと犬鳴山の膾谷さんのとても分かりやすい説明があり、大変ためになりました。
虎島へ渡る時に転びかけたりして危なかったのですが、海沿いの岩場を通り、序品窟に無事到着しました。序品窟の中は横が狭かったですが、上には高くひらけていました。
その後、時間の都合上観念窟へ向かう組とそのまま引き返す組に分かれ、私は観念窟へ向かったのですが、元々高いところが苦手であるため、岩から岩へ移ることが大変でしたが、先に登られた方がザイルを下ろしてくださったおかげで、何とか登りきることが出来ました。私は山の登り方、特に岩場の足場のとり方がよく分かっていない為、縄にしがみついて思いっきり体をあずけながらでないと登ることができません。そういったところを今後の課題として克服していきたいです。
西念寺さんでは、夜遅くにもかかわらず、たくさんの方々にお出迎えいただきました。日も落ちて寒かったのですが、そんな中お待ちいただいたことに私の心が温かくなりました。
二日目は朝旅館を出発したときは小雨でしたが、高仙寺さんに到着したときには、土砂降りへと変わっていました。役行者母公のお墓をお参りさせて頂いた後、寺横からの山道に入り暗い中進みました。山中では大峯修行のような危険なところはほとんどなく、想像以上に歩きやすかったです。道中や山頂で見る景色は素晴らしく、たまった疲れを吹き飛ばしてくれるものでした。
根来寺さんに到着したときも朝出発した時を同じくらい雨が降っていました。この日はアスファルトの上を歩く機会が多く足への負担が大きかったです。
三日目も朝からアスファルトの上を数キロ歩きました。前日の雨による水たまりやぬかるみが多く歩きにくい道中でした。 しかし万燈谷の方に入ってからは水たまりも減り、歩きやすくなっていました。
中津川行者堂と前鬼熊野神社は、苔の付いた粗い石段や境内など、昔のままといった印象でした。粉河寺さんでは特別に拝観させていただきました。今まで拝観させていただいた役行者像とは、お顔の雰囲気が異なり、とても印象的でした。
今回の修行を振り返ると、毎日が非常に内容の濃く、たくさんの貴重な体験をすることが出来、とても充実した三日間でした。今回の修行に際し、大峯修行での苦い経験があるためとても不安でしたが、役行者様のご加護と皆さんのおかげで無事に終えることができました。ご縁があれば今後の第二、第三行程もぜひ参加させて頂きたいと思います。本当にありがとうございました。
平成二十四年十一月十六日から十八日にかけて、葛城修験二十八宿巡峰修行を執行した。
本宗では昭和五十四年に執行して以来三十三年ぶりの修行となるため、当時を知る先達が少なくなったこともあり道程調査は困難であったが、真言宗犬鳴山七宝龍寺、聖護院門跡各宗派のご協力と、福家俊彦教学部長先導による事前現地調査により無事執行することができた。
当日は、本宗教師二十五名と犬鳴山七宝龍寺から膾谷師始め八名の修験者が参加され、友ヶ島序品窟(第一経塚)から中津川アラレ宿(第七経塚)までの二泊三日を第一行程として修行した。
本宗の参加者は下記の通りである。
修験検校代理