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歴史・年表


西暦
和暦
干支
事項
645 大化 元 乙巳 大化の改新の大業成る。
667 天智 6 丁卯 3月、近江大津宮に遷都。
668 天智 7 戊辰 正月3日、中大兄皇子即位(天智天皇)。中臣鎌足等近江令を撰進す。 このころ、崇福寺建立さる。
671 天智 10 辛未 天智天皇近江宮の崩御、大海人皇子吉野に入る。 大友皇子即位(弘文天皇)。
672 弘文 元 壬申 6月、壬申之乱起る。7月23日、天皇長等山前に崩御さる。 大友與多王、天武天皇に園城寺建立を奏上す(寺伝)。
672 天武 元 癸酉 飛鳥浄御原宮に遷都。
673 天武 2 甲戌 園城寺の工はじまる(寺伝)。
686 朱鳥 元 丙戌 園城寺の工おわる(寺伝)。 天武天皇より「園城寺」の勅願を賜い、大友氏の氏寺となす(寺伝)。
788 延暦 7 戊辰 7月、最澄、比叡寺を草創、のち延暦寺と改む。
829 天長 6 己酉 円珍、叡山に登り、座主義真の門に入る(珍伝、他)
833 天長 10 癸丑 4月15日、円珍、菩薩戒を受く(珍伝)。
838 承和 5 戊午 冬、円珍、黄不動尊の示現に会い、空光をして之を描かしむ(珍伝、智年譜)。
844 承和 11 甲子 円珍一期棲山を満ず(智年譜)。
845 承和 12 乙丑 円珍、大峯、葛城、熊野三山を抖修行す。三井修験の濫觴なり(寺撮三)。
850 嘉祥 3 庚午 6月、円珍伝燈大法師位に叙す(天台霞標一ノ五)。
853 仁寿 3 癸酉 7月15日、円珍入唐(行歴抄、珍伝、他)。
858 天安 2 戊寅 6月22日、円珍、太宰府松浦県に帰朝(珍伝、他)。
859 貞観 元 己卯 9月3日、円珍園城寺を慶す(天台座主記一、他)。 円珍、園城寺長吏になる(園長、他)。一説、貞観八年5月(霞標一ノ二)。 清和帝より仁寿殿を賜り、唐院を建て円珍将来の経籍をここに移す(智寺撮 一)。
860 貞観 2 庚辰 2月25日、円珍・円敏・増命・康済らと新羅神社を建つ(智年譜)。
864 貞観 6 甲申 慈覚大師円仁、東塔前唐院にて寂す(慈覚大師伝)。
866 貞観 8 丙戌 5月14日、園城寺を延暦寺別院となす(座主記一)。 別当は円珍の血脈より挙用することに定まる(智年譜)。俗大別当に大友夜 須麿任命。 10月11日、延暦寺、牒を下し、園城寺の別当三綱を補任す(座主記一)
868 貞観 10 戊子 6月29日、円珍に園城寺を賜い、伝法潅頂道場となし、唐請来の経籍こ とごとく唐院に納む(智年譜、他)。
6月3日、円珍、天台座主に補す(智年譜、座主記一、他)。
875 貞観 17 乙未 詔によって、三井鎮守の諸社を修造す。この時講堂、大塔建立す(寺撮三)。
888 仁和 4 戊申 11月17日、円珍、三カ条の遺誡を描き円仁門徒との親交をさとす(座主 記一、他)。
891 寛平 3 辛亥 10月29日、円珍叡山東塔に寂す(珍伝)
10月、惟首、円珍のあと園城寺長吏となる(園長、他)。
892 寛平 4 壬子 5月20日、惟首、天台座主に補す(座主記、他)。
894 寛平 6 甲寅 2月22日、慈鏡・増欽阿闍梨位を受く(寺撮五)。
899 昌泰 2 己未 増命、園城寺長吏となる(園長、他)。
906 延喜 6 丙寅 10月17日、増命天台座主に補す(座主記一、他)。
926 延長 4 丙戌 12月19日、宇多法皇、六十算を賀して、園城寺に絹五十疋を賜う (扶二四、他)。
927 延長 5 丁亥 勢祐、園城寺長吏となる(園長、他)。
12月27日、円珍に法印大和尚位を贈り、智証大師の諡号を賜う(座主 記一、珍伝、他)。
12月27日、増命に静観の諡号を賜う(座主記一、他)。
943 天慶 6 癸卯 明仙、維摩会の講師を勤む(寺高、寺撮四)。
962 応和 2 壬戌 4月、千観、法華三宗相対鈔を作る(扶二六)。
963 応和 3 癸亥 8月21日、開白清涼殿御八講に余慶・能慶・智興・寿譲ら、ともに宮講に あずかる(釈二五)。
966 康保 3 丙寅 慈恵大師良源、第18代天台座主となる(慈恵伝)。 一山規模整い、教学振う。
971 天禄 2 辛未 5月5日、余慶の奏により、新羅明神に正四位上を授く(園記一ノ二、他)。
979 天元 2 己卯 余慶、園城寺長吏となる(釈二、寺撮四、他)。
西暦
和暦
干支
事項
980 天元 3 庚辰 岩倉山観音院を円融天皇の御願寺とし、勝算をその阿闍梨とす(寺高二)。
981 天元 4 辛巳 5月11日、致平親王、出家し園城寺に入る。法名悟円(寺撮五、他)。
12月15日、余慶、法性寺座主に補す(扶二七、寺撮五、六)一説、11月 (僧綱補任)。慈覚門徒改補を奏請強訴す(座主記、他)。このころから円仁、 円珍の両門徒不和となり、山寺両門の確執はじまる。
982 天元 5 壬午 余慶、法性寺座主を辞す。慈覚・智証両門徒不和のため穆算その門人を率いて一乗寺に、勝算その門人を率いて修学院に、勧修その門人を率いて岩倉解 脱寺に移る(寺撮一)。山僧一二六人をして智証大師の経蔵を守護せしむ(扶 二七、釈二五、他)。
984 永観 2 甲申 恵心僧都源信、横川において「往生要集」を撰す(源信伝)。
989 永祚 元 己丑 9月29日、余慶、天台座主に補す。慈覚門徒これを拒む(座主記一、日 本紀略、他)。
12月20日、余慶、天台座主を辞す(座主記一、他)。
993 正暦 4 癸巳 8月8日、慈覚門徒千手院を毀つ。慶祚・賀延・忠増およびその門徒、千手院 の智証大師像を荷負して園城寺に拠る(座主記一、他)。山寺両派の分裂顕著。
9月15日、慶祚、八所明神を園城寺に勧請す(寺撮二)。
995 長徳 元 乙未 この年、智証門徒、ことごとく園城寺に集まる(寺撮六)。
1017 寛仁  元 丁巳 10月29日、智証大師遠忌に当たり、園城寺に藤原道長、頼道ら来寺し法華 十講を修し、はじめて碩学竪義をおく(扶二八、他)。
1018 寛仁 2 戊午 5月21日、近江関寺弥勒象成る(寺撮一)。
1031 長元 4 辛未 12月26日、永円、長吏となる(園長)。以後親王摂関の子孫これに任ぜら る。
1038 長暦 2 戊寅 10月27日、明尊、天台座主を競望す。慈覚門徒これを拒む(座主記一、他)。
1039 長暦 3 己卯 閏12月2日明尊、円満院を慶す(春記)。 明尊、園城寺に戒壇を建てんことを請う(釈四)。
1040 長暦 4 庚辰 10月22日、藤原頼道の室隆姫、園城寺常行堂、安楽行堂を慶し、土佐国和 食庄を寄す(寺撮一、他)。 明尊、水観寺を建つ(寺撮一)。
1041 長久 2 辛巳 5月14日、園城寺戒壇建立の可否を諸宗に問う。 諸宗これを可とするも、叡山のみこれを否と答う(扶二八、他)。
1048 永承 3 戊子 8月11日、明尊、天台座主に補す。山徒これを拒み在職3日にして辞す(座主 記一)。これ以後、寺門から座主補任あること七度、いずれも山徒の拒絶にあい 数日で辞去す。
1051 永承 6 辛卯 この年、宇治に平等院を建立す(要記四)。一説、永承7年3月28日 (扶二九、他)。
1052 永承 7 壬辰 9月19日、明尊、新羅明神社にはじめて新羅祭を行なう(智証大師全集第四)
1060 康平 3 庚子 8月、園城寺に竜華会を始修す(要記四)。
1062 康平 5 壬寅 8月、藤原実範記「園城寺竜華絵縁起」に新羅明神の説話がはじめてあらわれ る。
1063 康平 6 癸卯 12月24日、上東門院、園城寺一乗院慶す(錬四)。
1065 治暦 元 乙巳 行観、宇佐八幡宮を錦織庄に勧請す(寺撮五)。
1069 延久 元 己酉 5月29日、頼道一切経会を平等院に修し、恒例となす(扶二五、他)。宇治 一切経会のはじめ。
1070 延久 2 庚戌 6月29日、園城寺戒壇建立の可否を諸宗に問う(錬五)。
1072 延久 4 壬子 3月15日、大雲寺成尋入宋(扶二九、他)。 三井の聖願寺(現在の正法寺)建つ(寺撮一)。
1073 延久 5 癸丑 4月27日、後三条上皇、祭文を作って新羅明神に奉らる(扶三〇)
1074 承保 元 甲寅 4月、在宋僧成尋、経像等を岩倉大雲寺に寄送す(釈五)。 2月、頼豪、戒壇建立を請う(僧綱補任)。
1075 承保 2 乙卯 2月、延暦寺、園城寺両衆徒、戒壇の事で抗争す(要記五)。
1076 承保 3 丙辰 12月18日、平等院阿弥陀堂を慶す(錬五)。
1081 永保 元 辛酉 6月9日、山徒、園城寺を焼く(座主記一、扶三〇)。
9月13日、園城寺僧徒、延暦寺を攻む(座主記一)。
9月15日、山徒、ふたたび園城寺を焼く。坊舎ことごとく灰燼に帰す(座主記一、扶三〇、他)。 9月24日、義家をして園城寺を、頼俊をして牛尾山による園城寺僧徒を討たしむ(水左記)。
西暦
和暦
干支
事項
1084 応徳 元 甲子 4月11日、園城寺金堂建つ((要記五、他)。
頼豪寂(尊卑分脈)。
1085 応徳 2 乙丑 12月22日、常行堂を慶す(扶三〇)。
1087 寛治 元 丁卯 5月19日、白河上皇、宇治平等院に御幸(扶三〇、他)。
1090 寛治 4 庚午 正月、増誉、熊野三山検校に補す。熊野三山検校のはじめ(熊野検校次第)。
1098 承徳 2 戊寅 6月20日、智証大師門徒僧綱等、法成寺執行に補せられんことを訴う(寺高四)。
1105 長治 2 乙酉 正月1日、山徒、祇園の神輿を奉じ園城寺証観の探題を訴う(座主記、他)。
5月19日、増誉、尊勝寺・梵釈寺・嵩福寺等あわせて十三ヶ寺の別当に補す(寺撮四)。
1106 嘉承 元 丙戌 9月、源義家、新羅明神に柏木郷の貢七十二石を毎年寄進する旨の状を上ぐ(園城寺文書)。
1109 天仁 2 己丑 9月14日、新羅社念仏会始行(寺撮二)。
1113 永久 元 癸巳 四天王寺をながく平等院門室に附する旨宣下あり(寺撮四)。
1116 永久 4 丙申 5月、行尊、熊野三山検校に補す(熊野検校次第)。
10月16日、園城寺僧徒法勝寺の事により強訴せんとする。検非違使をして、これを制止せしむ(殿暦)
1120 保安 元 庚子 4月、院宣を延暦寺・園城寺に下して僧徒の乱行を禁ず(錬五、他)。
1121 保安 2 辛丑 5月27日、園城寺僧徒の延暦寺修行僧を殺すにより、山徒、園城寺ならびに観音院、一乗寺に放火す(座主記二、他)。
5月29日、園城寺僧徒、大津の民家を焼く(座主記二、他)。
閏5月3日山徒、園城寺の堂塔僧房を焼き、廃墟と化す(座主記二、他)。
1123 保安 4 癸卯 8月、延暦寺、園城寺の僧徒相争う(園記)。
1130 大治 5 庚戌 正月14日、覚猷、権僧正に任ず(要記五)。正員を経ざる僧正のはじめ。
1133 長承 2 癸丑 9月20日、覚猷、院宣により覚鑁に潅頂を授く(寺撮四)。
1134 長承 3 甲寅 8月27日、金堂を慶す(錬六、他)。閼伽井屋創立(寺伝)。
1138 保延 4 戊午 6月2日、園城寺僧徒、別当禅仁の房舎を焼く(錬六)。
10月27日、覚猷、天台座主に補す。在職3日(座主記二)。
1140 保延 6 庚申 4月10日、山徒、三井の塹坑を埋めんとして寺門の徒と争う(寺撮四)。
閏5月25日、7月16日、山徒、園城寺を焼く(座主記二、他)。
1142 永治 2 壬戌 3月17日、寺門の徒、山門東西の両塔を焼く(錬七)。
11月19日、三井寺金堂を造立す(寺撮四)。
1146 久安 2 丙寅 3月19日、園城寺僧徒、延暦寺延命院を焼く(座主記二、他)。
1152 仁平 2 壬申 7月12日、園城寺金堂を慶す(寺高四)。
1153 仁平 3 癸酉 6月、房覚、三井新羅社に一7日供花す。当社安居のはじめ(寺撮二)。
1158 保元 3 戊寅 4月18日、近江関寺に竜華会始行(寺撮一)。
10月17日、後白河上皇、宇治平等院に御幸(寺高六)。
1159 保元 4 己卯 2月8日、証禅寂す。かつて大師集ならびに門徒集合して百巻を撰す(寺撮五)
  平治 元 己卯 11月、熊野社を金堂乾角に勧請す(三井九)。
1161 永暦 2 辛巳 3月、山徒、園城寺別院平等院に戒壇建立の事あるを疑い、蜂起す(錬七)。
1162 応保 2 壬午 覚忠の天台座主補任を拒んで、山徒蜂起す(座主記他)。
1163 長寛 元 癸未 3月29日、延暦寺の訴により、園城寺僧の天台座主に補すべきものは、旧のごとく叡山に受戒せしむ。
園城寺従わず(座主記二、他)。
同日、興福寺奏上を上り、園城寺僧侶の南都受戒と延暦寺は興福寺の末寺たるべきことを請う(錬七、他)。
6月9日、山徒、園城寺を攻めて焼く。この時修学院・解脱寺・一乗寺・嵩福寺・梵釈寺も焼く(錬七、他)。
1174 承安 4 甲午 8月13日、覚忠、一の座の宣旨を蒙る(座主記二)。一説、安元元(寺撮四)
1178 治承 2 戊戌 2月1日、後白河法皇、園城寺に潅頂を受けんとするを聞き、山徒、蜂起して園城寺を焼かんとす。朝廷これを諭止(玉葉、他)。
1180 治承 4 庚子 5月18日、以仁王、頼政と共に園城寺に入る。園城寺、興福寺、延暦寺に牒して援を請う(玉葉、他)。
11月27日、朝廷、延暦寺、園城寺をして僧徒の頼朝に応ずるものを糾弾せしむ(玉葉、他)
12月11日、朝廷、延暦寺、園城寺の僧徒の源氏に与せるにより、平清房を遣わして、これを焼かしむ(玉葉、他)。
1182 養和 2 壬寅 正月17日定恵、四天王寺別当をながく園城寺平等院に附せられんことを請う(寺高六)。
1184 元暦 元 庚辰 12月、源頼朝、近江国横山および若狭国玉置荘を園城寺に寄す(吾三)。
1190 建久 元 庚戌 8月、頼朝上京に際し、園城寺青龍院修理料として剣、砂金千両を施入す。
西暦
和暦
干支
事項
1191 建久 2 辛亥 2月17日、静恵、無品親王に叙す(釈家官班記一一)。寺門法親王のはじめ。
1196 建久 7 丙辰 4月、四天王寺別当替補の事により、園城寺衆徒蜂起す(寺門伝記補録、他)。
1199 建久 10 己未 2月5日、尊念、鶴岡八幡宮執行に補す(鶴岡両界壇供僧次第)。
1207 承元 元 丁卯 10月28日、後鳥羽上皇、園城寺長吏実慶の房に行幸。同寺所司に赤袈裟を許す(月記、他)。11月13日、この着用を中止す(座主記三、他)。
熊野三山検校職ながく三井に附する旨宣下(寺撮六)。
長厳、三山検校(寺撮五)。
1208 承元 2 戊辰 正月、讃岐真庄を園城寺に寄す(寺高)。
1209 承元 3 己巳 9月29日、公胤、幕府の招請により鎌倉に下向(吾一八)。
10月15日、公胤、将軍実朝に謁して園城寺興隆の事を訴う(吾一九)。
1211 建暦 元 辛未 3月23日、山徒、園城寺を焼かんとす。幕府、園城寺を警護せしむ(吾一九)。
1213 建暦 3 癸酉 8月、興福寺衆徒、園城寺の牒に応じて神木を奉じて入京せんとす(新編鎌倉志、、吾一九、他)。
道元、長吏公胤に参問す(大久保道元禅師伝に研究)。
1214 建保 2 甲戌 4月15日、山徒、大津東浦、西浦、園城寺等を焼尽す(釈二六、寺撮六、他)。
4月25日、長吏公胤、寺門の焼失を鎌倉幕府に愁訴す(吾二二)。
5月7日、幕府、園城寺の再興を奉行に命ず(吾二二)。
1215 建保 3 乙亥 3月16日、園城寺衆徒、延暦寺東坂本を焼く。朝廷、張本人十二名を処刑す(錬一二)。
1217 建保 5 丁丑 6月20日、公暁、園城寺を出て鶴岡八幡別当となる(吾二二)。
1219 建保 7 乙卯 正月27日、鶴岡若宮別当公暁、将軍実朝を弑し公暁もまた雑賀定景のため殺れる(吾二四、他)
1223 貞応 2 癸未 7月、園城寺衆徒、四天王寺別当職を平等院に返付せられんことを請う(三井九、他)
1238 嘉禎 4 戊戌 7月11日、北条泰時、政子十三回忌に書写させた一切経を園城寺唐院に納む(吾三二)。
1247 宝治 元 丁未 6月27日、隆弁、鶴岡若宮別当に補す(寺撮四)。
1257 正嘉 元 丁巳 3月27日、長俊、尊賢ら園城寺戒壇建立の事を訴う(三井九)。
1258 正嘉 2 戊午 3月17日、山徒、園城寺戒壇建立中止を強訴す(錬一七)。
9月、園城寺、戒壇建立の事を幕府に訴う(三井九)。
1259 正嘉 3 己未 3月1日、園城寺衆徒、戒壇不許を恨み、自ら唐院経蔵を焼く(錬一七、他)
1260 正元 2 庚申 正月4日、園城寺三摩耶戒壇建立を勅許す。山徒、日吉・祇園・北野の神輿を奉じて入洛強訴す。よって19日勅許を収む(座主記四、他)
1264 文永 元 甲子 5月2日、山徒、園城寺を焼き、梵鐘を叡山上に持ち帰る。(座主記四、他)。「弁慶の引き摺り鐘」はこれの伝説化。
1267 文永 4 丁卯 4月29日、梵鐘四年ぶりで山門より返る(座主記四、他)。
1274 文永 11 甲戌 3月2日、山徒、長吏円助親王の叙位を怒り、日吉神輿を摧く(座主記四、他)。
1278 弘安 元 戊寅 5月12日、山徒、園城寺金堂供養の勅会に准ずるを怒り、神輿を奉じて入京す(要記、他)
1280 弘安 3 庚辰 6月24日、山徒、園城寺を攻め守護の兵と戦い、北院を焼く(要記九、他)
1313 正和 2 癸未 園城寺勧学院建つ(三井五)。
1319 文保 3 己未 3月、山徒、戒壇の事により、園城寺を攻め、これを焼く(花園記、他)。
4月18日、園城寺造営成る。戒壇および金堂供養導師長乗(続史一七)。
4月25日、山徒、園城寺を焼く。創建いらい今度に至り十度(座主記四、他)
1331 元弘 元 辛未 9月29日笠置陥る。後醍醐天皇、宇治平等院に遷幸(続史一八、他)。
1336 建武 3
(延元 元)
丙子 1月16日、園城寺衆徒、足利氏に応じ、北畠顕家新田義貞の二軍と戦い、義貞に破られ、山徒に焼かれる(続史二〇、三井九、寺撮六、他)
11月26日、尊氏、石見、安芸、美作の地を園城寺に寄す(三井九)
1337 建武 4
(延元 2)
丁丑 2月4日、尊氏、園城寺衆徒の与力をたたえて、造営料として近江山賀庄を寄す(三井九)。
1338 暦応 元
(延元 3)
戊寅 8月25日、高師直、書を右馬守に送り、園城寺寄附地地頭職の事を達す(後鑑一九)。
1340 暦応 3
(興国 元)
庚辰 7月26日、園城寺衆徒、足利直義の命を受けて勢多橋を警固す(後鑑二二、他)。
1342 暦応 5
(興国 3)
壬午 4月、尊氏、粟津別保の地頭職を新羅明神社に寄進す(後鑑二六)。
12月10日、大聖房泉尊、園城寺再興を図る(三井二)。
1343 康永 2
(興国 4)
癸未 8月10日、園城寺衆徒、幕府の命を受けて、勢多橋を警固す(天野文書)。
西暦
和暦
干支
事項
1344 康永 3
(興国 5)
甲申 11月16日、佐渡の数庄を園城寺に寄す(後鑑二六)。
11月、三井水心法師、寺徳集ならびに新羅問答抄を撰す(同書叙、寺撮五)。
1345 貞和 元
(興国 6)
乙酉 このころから、現存新羅明神堂起工はじまる。完成正平4年「貞和五」ごろ(寺伝)。
1347 貞和 3
(正平 2)
丁亥 金堂再建(文禄の欠所によって叡山に移建。現存西塔釈迦堂)。
1350 観応 元
(正平 5)
庚寅 11月4日、園城寺衆徒に勢多橋を警固さす(後鑑三六)。
1351 観応 2
(正平 6)
辛卯 2月6日、直義、書を園城寺に送り、東国軍勢の乗船を調えしむ(後鑑三六)。
1352 文和 元
(正平 7)
壬辰 閏2月29日、義詮、寄附地安堵の書状を園城寺へ送る(後鑑四三)。
4月5日、義詮、伊勢丹波の内地を園城寺衆徒に寄す(後鑑四四)。
10月、義詮、石見、安芸、越前、近江の地を園城寺に寄す(後鑑四六)。
12月、尊氏、経蔵を園城寺に寄す(三井一〇)。
1353 文和 2
(正平 8)
癸巳 6月1日、義詮、美作国青柳庄を園城寺に寄す(後鑑四七)。
1354 文和 3
(正平 9)
申午 12月、尊氏、一切経を東持院に献じたが、のち園城寺の要請により園城寺へ移し奉納す(足利一切経目録)。
1365 貞治 4
(正平20)
乙巳 6月20日、園城寺衆徒、山科を焼く(後鑑四七)。
1367 貞治 6
(正平22)
丁未 6月18日、南禅寺造営の事により、園城寺僧徒強訴す(三井一〇、他)
6月26日、園城寺衆徒、南禅寺の設くる関二ヶ所を毀ち、禅僧等を殺す。
幕府、南禅寺の訴により、園城寺の領する三関を焼く(太平記)。
1384 至徳 元
(元中  元)
甲子 3月、衍舜、覚増親王に授決集を講授す(三井三)。
5月12日、義満、建武以来の御寄附の御判を園城寺に賜う(後鑑九〇)。
1398 応永 5 戊寅 3月、熊野社社殿上棟、法務行慶、別当良淳(棟札)。
1411 応永 18 辛卯 10月9日、義持、園城寺旧領の証判を與う(後鑑一二)。
1412 応永 19 壬辰 三井新羅社護摩堂を慶す(三井一)。
1419 応永 26 己亥 10月20日、幕府、三井寺をして関所のことに関わらしむ(綜覧七)。
1420 応永 27 庚子 宝憧寺供養の事により、三井の徒蜂起す(三井三)。
南別所近松、顕証寺建立(寺伝)。
1432 永享 4 壬子 7月6日、三井如意輪堂を慶す(三井一〇)。
1433 永享 5 癸丑 5月7日、幕府、園城寺の請により、升米関を復す(綜覧七、他)。
7月25日、幕府、園城寺衆徒に命じて勢多橋を警固せしむ(園文)。
8月12日、山徒、園城寺の強訴に与せざるを怒りて園城寺を襲う(看記)。
12月3日、幕府、坂本退治の勲功を賞し、園城寺の衆徒に教書を下す(後鑑一五三)。
1443 嘉吉 3 癸亥 9月19日、園城寺衆徒、金堂に拠りて強訴す(看記)。
1461 寛正 2 辛巳 南都七大寺、三カ条の訴えをもって寺門を閉ず(古今最要抄)。
1468 応仁 2 戊子 9月12日、足利義視、園城寺に入る(後鑑二一四)。
9月29日、如意寺焼く(綜覧八)。
1481 文明 13 辛丑 8月、三井の正法寺を今の地に移す(寺撮)。
1484 文明 16 甲辰 6月20日,大伴某、温故知新書を編す。この日園城寺尊通、この序をつくる(温故知新書)。
1486 文明 18 丙午 真盛上人、坂本に西教寺をひらく(真盛伝)。天台宗真盛派のはじまり。
1487 長享 元 丁未 9月16日、細川政元、兵を率いて園城寺に陣す(綜覧八)。
1490 延徳 2 庚戌 4月、十八明神社改造、当社別当大法師永賢(棟札)。
1491 延徳 3 辛亥 8月27日、義材、六角高頼征伐のため、出陣。園城寺光浄院に陣す(後鑑二五三、他)。
1496 明応 5 丙辰 5月、道興、新熊野修造勧進疏を書す(綜覧九)。
1499 明応 8 己未 4月22日、園城寺尊通、自著源信年譜を三条西実隆に進献す(綜覧九)。
1501 文亀 元 辛酉 6月、熊野権現社頭修造、長吏無品親王興誉。
1531 享禄 4 辛卯 正月11日、京勢、岡崎聖護院並に在家を焚く(続史四六)。
1536 天文 5 丙申 延暦寺、園城寺、東寺等日蓮の徒を撃たんことを奏し、また興福寺等に合力を請う(高野山旧記、他)。
1552 天文 21 壬子 観音寺、城主佐々木と大津四宮祭につき争うや、その焚掠に遭う(園文)。
1567 永禄 10 丁卯 3月、三井寺政所より信州立石村斉藤杢太夫へ御教の儀相許さる(園文)。
1568 永禄 11 戊辰 9月25日、織田信長、園城寺極楽院に陣す(後鑑三四〇)。
西暦
和暦
干支
事項
1569 永禄 12 己巳 3月23日、道増、義昭のめいにより、吉川元春と小早川隆景の和議を斡旋す(吉川家、小早川家文書)。
1570 元亀 元 庚午 11月28日、将軍義昭、園城寺に移る(続史五十)。
1571 元亀 2 辛未 9月12日、信長、叡山の朝倉氏に党するを怨み、全山焼き打ちにす。全山焦土と化す(座主記五、他)。
1582 天正 10 壬午 6月14日、羽柴秀吉。明智攻撃に際して近江園城寺に陣す(秀吉事記、他)。
1588 天正 16 戊子 10月29日、園城寺において、智証大師七百年遠忌を修す(華頂要略一三)。
1592 天正 20 壬辰 6月15日、園城寺の鐘音止むにより、大般若経を転読(続史五一)。
1595 文禄 4 乙未 秀吉、園城寺に闕所の命を下し、堂宇を破壊し、寺領を没収(続史五一、他)。
4月、観音寺詮舜、園城寺の弥勒堂(金堂)を移して、叡山西塔釈迦堂と成す(座主記六、他)
1598 慶長 3 戊戌 6月3日、秀吉、園城寺の闕所を解き、再興をゆるす。(続史五一)。
北政所寺領四三二〇石余を復す。
10月、唐院再興に着工(現存)。
1599 慶長 4 己亥 9月8日、園城寺講堂立柱(続史五二)。以後諸伽藍を造営。
5月、北政所園城寺に参詣。
1600 慶長 5 庚子 4月m勧学院客殿の建立に着手。狩野光信、勧学院の襖絵を描く(修理銘)七、北政所寄進の閼伽井屋完成(寺伝)。
1601 慶長 6 辛丑 3月、徳川家康、伏見城の楼門(旧常楽寺楼門)、三重塔(旧比蘇寺三重塔)を移して寄進。
山岡宮内郷法印道阿弥、光浄院客殿を再建す。暹慶法印と称す(寺伝)。
閏11月、毛利輝元、周防国の国清寺経蔵を解体、翌年春、園城寺へ一切経とともに寄進。
1602 慶長 7 壬寅 5月、新鐘完成し、これを鐘楼につる。
12月4日、照高院焼く(続史五二)。
1606 慶長 11 丙午 春、園城寺金堂・東大門造営勧進を始む(寺高)。
1609 慶長 14 己酉 5月朔日、秀忠、園城寺に寺領を寄す(徳記)。
同日、幕府、園城寺寺務条規および修験道法度を照高院に下す(徳記九、他)。
1612 慶長 17 壬子 園城寺領四四八四石。
十八明神社造営、寺務二品道勝親王、当主内筒井衆勧学院曉算(棟札)。
1613 慶長 18 庚丑 4月28日、照高院道澄、駿府登城(徳記二二)。
5月5日、修験道本山、当山両派、役銭のことをもって相争う。家康、照高院興意、三宝院義演を召して之を裁決す(駿府記、他)。
1614 慶長 19 甲寅 6月、園城寺において6月会を行う(実相院文書、他)。
1615 慶長 20 乙卯 4月20日、家康、大峯五鬼の由来を照高院興意親王および三宝院義演准后に諮問す(義演日記、他)。
1616 元和 2 丙辰 毘沙門堂建立(大津市史)。
1623 元和 9 癸亥 後水尾天皇、三重塔本尊として釈迦如来を寄進。
1634 寛永 11 甲戌 閏7月14日、聖護院道晃、照高院道周、園城寺長吏を争う(大猷院殿御実記二六)。
1637 寛永 14 丁丑 慶長度、内裏車寄を移建して、閼伽井屋(現存)とす(森薀氏、本書)。
1665 寛文 5 乙巳 四代家綱将軍、四六一九余の朱印状を寄す。
1672 寛文 12 壬子 義瑞、園城寺光浄院亮慶の室に入る(瑞業)。
1673 寛文 13 癸丑 幸(続史六一)。
長吏聖護院門跡より寺中法度の覚えとして規則発布さる(寺伝)。いらい江戸時代園城寺寺規の根拠となる。
1675 延宝 3 乙卯 11月25日、京都大火。聖護院等焼く(続史六一、他)。
1683 天和 3 癸亥 10月29日、智証大師八百年忌を園城寺に修す(続史六三)
1686 貞享 3 丙寅 5月2日、園城寺観音堂焼く(続史六三)。
1688 元禄 元 戊辰

慈山、園城寺に妙宗鈔を講じ、聖護院に指要鈔等を講ず(妙立和尚行業記)。

1689 元禄 2 己巳 8月9日、円空、関市弥勒寺を園城寺末寺とする。
1690 元禄 3 庚午 現存観音堂を修復再建。
1701 元禄 14 辛巳 4月、義瑞、志賀山寺の方丈浄厨成るをもって、移り住す(瑞業)。
1704 宝永 元 甲申 春、義瑞律師、妙宗鈔を講じて光謙の曹釈筆記を斥く(瑞業、他)。
1705 宝永 2 乙酉 義瑞、弁内外二境弁を著して、光謙の内外二境弁を破す。また内外二境観拾遺五巻を撰す(瑞業、他)。
秋、義瑞、地蔵経と往生要集を講じて道俗を勧奨す(瑞業)。
西暦
和暦
干支
事項
1708 宝永 5 戊子 夏、義瑞、勝蓮社を創し念仏会を建つ。その会に与かるもの万余人(瑞業)。
1714 正徳 4 甲午 4月、義瑞、内外境観二百難三巻を著して、霊空の弾拾遺を斥く(瑞業)。
1721 享保 6 辛丑 2月、関清水大明神蝉丸宮別当三井寺近松寺執行より、信州立石村斉藤杢太夫組中へ蝉丸宮御由来の秘巻下さる(園文)。
1723 享保 8 癸卯 11月、義瑞、唐土山法明院を開創す(瑞業)。翌年9月24日落成。
1728 享保 13 戊申 8月、霊元法皇、義瑞の道誉を聞き、詔してこれを召し、浄土の法要を問い給う。
師、妙宗の旨を以て答う(瑞業)。
1735 享保 20 乙卯 4月13日、山城宇治鳳凰堂修理落慶供養、法寿院忍玉咒願(園別)。
1740 元文 5 庚申 金乗院実光、智証大師八百五十年遠忌咒願を勤む(園別)。
1767 明和 4 丁亥 秋、敬光、唐房行履録三巻を編す(道業)。
1774 安永 3 甲午 この年、敬光、円戒七筌十巻、円戒膚談七巻、教時要義一巻を著す(道業)。
1785 天明 5 乙巳 仏猊、、敬光珍蔵する所の群籍すべてその付嘱を受く(復古四師略伝)。
1788 天明 8 戊申 正月29日、光格天皇、火災により聖護院に遷幸(座主記七、他)。
正月29日、後桃園上皇、火災により照高院に遷幸(座主記七、他)。
1790 寛政 2 庚戌 9月19日、智証大師九百年遠忌を園城寺に修す、導師盈仁親王(聖譜、他)。
1794 寛政 6 甲寅 秋、敬光、法明院に遷り住す(道業)。
1795 寛政 7 乙卯 8月22日、顕道和尚敬光寂す。かつて撰述するもの五十三部九十三巻あり(道業)。
1801 享和 元 辛酉 5月、三井寺政所より信州立石村斉藤杢太夫あて蝉丸宮祭礼の説教講師仰付あり(園文)。
1803 享和 3 癸亥 この年、良厳、園城寺に在て観経疏鈔、菩薩戒経会疏、四教義集註等を講ず(復古四師略伝)。
1806 文化 3 丙寅 この年、敬長、園城寺唐院に台荊の諸書を講ず(越渓道蹟)。
1808 文化 5 戊辰 11月11日、園城寺教待和尚九百五十回遠忌曼荼羅供に修行す(園別)。
1819 文政 2 己卯 7月、守脱、叡山安楽律院聖宝和尚を拝して受戒す(宝年譜)。
1822 文政 5 壬午 冬、敬長、叡山宗淵阿闍梨贈る所の松材をもって、円戒守護の神として天満宮神像を造り、祠を営む(越渓道蹟)。
この年、守脱、菩薩戒を受く(宝年譜)。
1828 文政 11 戊子 秋、敬長、顕道和上行業記一巻を撰して之を刊行す(越渓道蹟)。
1838 天保 9 戊戌 7月21日、守脱、摩訶止観開講、同10年11月3日講了(宝年譜)。
1840 天保 11 庚子 8月29日、智証大師九百五十年遠忌を園城寺に修す(聖譜)。
1841 天保 12 辛丑 2月6日、守脱、法華文句開講、明年6月19日講了(宝年譜)。
1854 嘉永 7 甲寅 4月6日、禁裡炎上。天皇聖護院に遷幸、仮皇居となす(聖門伝)。
1857 安政 4 丁巳 11月25日、勅により園城寺に於て国家安全の御祈祷修行。アメリカ使節来朝による(北林記)。
1860 万延 元 庚申 11月、園城寺、領内八ヶ村へ水損凶作のため、救済米を出す(北林記)。
1863 文久 3 癸亥 3月8日、開白園城寺金堂において、英艦来横につき、叡襟・安穏攘夷御祈修行(園記抄)。
1868 慶応 4 戊辰 正月7日、聖護院宮雄仁、復飾して嘉言親王と称す(聖門伝)。
正月9日、嘉言親王、園城寺長吏を止められ、さらに園城寺別当に補せられ、修験宗を管領す(聖門伝、他)。正月15日、照高院宮智成親王復飾さる(聖門伝)。
3月28日、神仏判然の令おこなわる(太政官布告第一九六号)。
8月10日、嘉言親王園城寺別当を辞し、照高院これに補す(聖門伝、他)。
1869 明治 2 己巳 8月、中川守脱、山門より転入し、10月2日法華文句を開講す(文句聞書、他)
1870 明治 3 庚午 6月26日、園城寺、長吏職を古則に準じ、六碩室へ御預許可願を提出す(園記抄)。
1871 明治 4 未辛 2月4日、園城寺、現境内を除く外、一般上地仰付らる(園記抄)。
1872 明治 5 壬申 8月3日、山科祐玉、天台一宗管長に補せらる(教部省辞令、他)。
9月6日、園城寺政所を廃し、法務所とし、寺中宝寿院に設置す(称讃記)。
9月8日、天台宗寺門法務所規定を施行す(園記抄、他)。
9月15日、修験宗を廃し、天台・真言両宗に帰入を命ぜらる(園記抄)。
1873 明治 6 癸酉 7月7日、園城寺、太陽暦をもって盂蘭盆会を執行す(園記抄)。
9月20日、大津歩兵第九連隊敷地として、北院境内十町四畝三歩上地引渡す(園記抄)。
10月7日、園城寺北院境内地三万百二十坪余を上地下令引渡す(園記抄)。
1874 明治 7 甲戌 3月30日、旧修験寺院へ加持祈祷執行に関する布告を発す(園記抄)
5月19日、山科祐玉、寺門一派管長に申請許可さる(園記抄)。
5月23日、一派管長を定立し、天台寺門宗務局を東京芝区新銭庵大一二番地に設置す(園記抄)。
6月7日、禁厭祈祷により医療妨害を注意布告す(園記抄)。
10月4日、旧修験の無院蹟寺院名の公称を禁ぜられ、その布告を発す(園記抄)。
西暦
和暦
干支
事項
1875 明治 8 乙亥 9月17日、大教院開莚式を挙行す(寺、布達集)。
9月30日、園城寺、制度を改革し、別当職を廃し、住職を置き、これを貫主と称す(別歴記)。
1876 明治 9 丙子 1月1日、園城寺南北中三院を合併し、一院制を実施す(園記抄)。
1月9日、総本山園城寺中規約を制定す(園記抄)。
1878 明治 11 戊寅 10月20日、明治天皇、三井寺山の西南戦役記念碑除幕式に臨幸あらせられ、月見舞台にて御中食あらせらる(園記抄)。
1879 明治 12 己卯 5月、佐竹義堯、小笠原長守、柳沢保甲、南部利恭ら、新羅三郎義光公墓碑を建立(碑銘)。
5月、権大教正山科祐玉、大教正に補す(別歴記)。
12月15日、総本山園城寺住職は必らず管長に、園城寺住職は聖護院、円満院、実相院三室住職輪次兼帯し、三室住職は末寺の意見により、園城寺において評決すべき旨、達せらる(寺門派大教院記録)。
1881 明治 14 辛巳 1月19日、園城寺住職を山科祐玉に任命申請を内務卿に提出す(園記抄)。
11月22日、宇治平等院事務章程を浄土宗と協定す(最勝院記録)。
1883 明治 16 癸未 4月3日、元老院議官町田久成、法明院敬徳律師を拝して、八斉戒を受く(寺、表白集)。
1884 明治 17 甲申 3月10日、園城寺保存のため、園城会を設立し、久邇宮朝彦親王を会長に推戴す(園記抄)。
9月6日、寺門派の管長を長吏と公称し、山科祐玉之に就任す(大布告)。
1885 明治 18 乙酉 9月21日、米国人フェノロサ、ビゲロー、桜井敬徳律師を拝して戒を受く(法明院記)。
1888 明治 21 戊子 10月29日、園城寺法華大会を復興し、初めて臨監を仰ぐ(別歴記)。
1889 明治 22 己丑 4月8日、円満院門跡旧殿舎払下許可さる(園記抄)。
12月1日、町田久成、敬徳律師を拝して大乗菩薩沙弥戒を受く(寺、表白集)。
1890 明治 23 庚寅 10月27日、開白3日間、園城寺に於て智証大師一千年遠忌を修す(園記抄、他)。
1892 明治 25 壬辰 4月20日、寺門派修験道細目を制定施行す(寺、布達集)。
1894 明治 27 甲午 5月22日、園城寺碩室金乗院焼亡(寺、布違集)。
1896 明治 29 丙申 9月28日、米国人フェノロサ夫人、マリー女史直林寛良師を拝して戒を受け、法名を光瑞と授与さる(法明院記)。
10月23、4日、園城寺において天台大師一千三百年遠忌法要を修行す(寺、布達集)。
1898 明治 31 戊戌 4月8日、寺門派勧学院開校式挙行(寺、布達集)。
1899 明治 32 己亥 5月11日、開白7日間、高祖神変大菩薩一千二百年遠忌を総本山園城寺に執行(寺、布達集)。
1902 明治 35 壬寅 1月31日、園城寺上地林の一部旧中院森林地を境内地に編入許可さる(園記録)。
9月16日、園城寺上地林五十六町三反余を境内地に編入許可さる(園記録)。
1905 明治 38 己巳 3月10日、寺門派新宗制により、初めて三門室の選挙を発令す(寺、布達集)。
5月1日、聖護院門跡樋上顕定、新宗制により寺門派長吏に就任す(寺、布達集)
1906 明治 39 丙午 2月16日、円満院門跡直林敬円、寺門派長吏に就任す(寺、布達集)。
4月14日、園城寺金堂・閼家伽井屋・一切経蔵・三重塔婆、国宝指定(園記録)。
1908 明治 41 戊申 8月20日、寺門派新宗制により、初めて宗会議員の選挙を発令す(寺、布達集)。
9月26日執行(寺、布達集)。
11月25日開会(寺、布達集)。
9月21日、フェノロサ(法名諦信)、ロンドンに客死(法明院記)。
1909 明治 42 己酉 9月21日、フェノロサ諦信の遺骨を法明院境域に葬る(法明院記)。
1912 明治 45 壬子 2月8日、園城寺境内釈迦堂、国宝指定(園城寺特別保護建造物記録、他)。
1918 大正 7 戊午 4月20日、寺門派開創一千年記念「智証大師全集」第一巻刊行、12月20日完了(奥村、園記抄)。
1921 大正 10 辛酉 9月16日、寺門派長吏選挙を行ない、前長吏直林敬円当選、就任(寺、布達集)。
1923 大正 12 癸亥 4月1日、聖護院門跡柳田暹、長吏に当選(寺、布達集)。
1926 大正 15 丙寅 10月6日、米人ビゲロー、米国ボストン市にて死す(法明院記)。
10月20日、園城寺において新羅義光公八百年遠忌を修行(慶讃表白集)。
1927 昭和 2 丁卯 1月1日、修験道事務局を大本山聖護院門跡に開設す(寺、布達集)。
西暦
和暦
干支
事項
1928 昭和 3 戊辰 4月23日、米人月心ビゲローの遺骨を法明院境域に葬る(法明院記)。
1929 昭和 4 己巳 4月26日、山科晃玉、長吏に就任す(寺、布達集)。
1930 昭和 5 庚午 4月20日、園城寺唐院に伝法灌頂を開壇す(寺、灌譜)。
4月30日、唐院に受明灌頂を執行し、本派教師の入壇を許す(受明灌頂記)
5月4日〜7日の4日間、結縁灌頂を執行し、黄不動尊を拝礼せしむ。東伏見伯以下三千余人入壇(寺、結縁灌頂記)
1931 昭和 6 辛未 11月25日、結縁灌頂記念出版「園城寺之研究」刊行報告大法要を祖廟に厳修す。執筆者三十余人(寺門派宗報)。
1933 昭和 8 癸酉 2月23日、、園城寺所蔵智証大師親筆円珍疑問外文書五十三点、国宝指定(国宝録)。
1934 昭和 9 甲戌 9月21日、台風により山内倒木大小七千本、新羅社本地堂及び拝殿を全壊し、堂舎の被害等損害甚大(寺門派宗報)。
12月28日、善法院・光浄院の庭園を名勝史蹟天然記念物に指定さる(寺誌)。
1935 昭和 10 己亥 4月27日、実相院門跡、田中道淳、長吏に就任(寺、布達集)。
1月、園城寺御幸山に西南並に日清・日露役戦死者の忠魂碑を移建す(寺誌)。
1936 昭和 11 丙子 11月7日、法明院開祖義瑞律師二百年遠忌大法要を修し、記念茶会を開催す(法明院記)。
1940 昭和 15 庚辰 4月、智証大師千五十年大遠忌法要厳修(寺誌)。
1941 昭和 16 辛巳 4月、天台三派(山門、寺門、盛門)合同し、天台宗として発足、初代管長に延暦寺座主渋谷慈鎧大僧正就任(寺、布達集)。
1942 昭和 17 壬午 3月、園城寺国有境内地無償譲与申請書を大蔵大臣賀屋興宣宛提出す(寺誌)。
1944 昭和 19 甲申 2月、園城寺長吏山科晃玉大僧正遷化(寺、布達集)。
3月、福家守明、第百六十一代園城寺長吏に就任(布達集)。
同月、長吏福家守明、天台宗管長に就任(布達集)。
1945 昭和 20 乙酉 12月、宗教団体法廃止される。
1946 昭和 21 丙戌 4月、宗教法人令により、天台寺門宗設立、初代管長に長吏福家守明就任す(布達集)。
6月、天台寺門宗創立記念大法要を金堂において厳修、早川大津市長並に各宗管長門跡参列す(寺誌)。
11月、皇太子の英語教師、エリザベス・ヴァイニング夫人来山、諦信フェノロサ博士の墓前に献香す(寺誌)。
1947 昭和 22 丁亥 1月、西国十四番札所観音堂庫裡、客殿焼失す(寺誌)。
2月、円満院、天台寺門宗総本山園城寺と袂を分ち無宗派単立寺院となる。
3月、皇太子御四詣。福家守明長吏御先導にて金堂、光浄院、観音堂等を巡拝さる(寺誌)。
1948 昭和 23 戊子 1月、国宝五部心観等古文書二十五点保存修理終る(文化財)。
4月、石造橋、毘沙門堂、石室、石造宝塔、重要美術品に認定さる(文部省)。
4月、法律第五十三号により、園城寺国有境内地並びに元保管林の無償譲與申請を行う(寺誌)。
10月、自作農創設特別措置法により、園城寺所有農地政府に買収される(寺誌)。
1950 昭和 25 庚寅 5月、園城寺金堂において神変大菩薩一千二百五十年大遠忌法要を行なう(寺誌)。
8月、文化財保護法により旧国宝を重要文化財に指定さる(文化財)。
12月、歳末助け合い運動の一環として、全山あげて托鉢修行を行ない、毎年の恒規となす(寺報)。
1951 昭和 26 辛卯 2月、光浄院客殿災害復旧修理終る(文化財)。
5月、勧学院襖絵保存修理終る(文化財)。
西暦
和暦
干支
事項
1952 昭和 27 壬辰 3月、毘沙門堂、重要文化財に指定さる(文化財)。
4月、黄不動尊、秘仏にして文化財保護委員会に出陳不可能なため、国宝指定を一時延期すとの通知あり(文化財)。
10月、園城寺金堂放火さるも早期発見のため大事に至らず(寺誌)。
10月、長吏大阿闍梨守明より俊雄、俊明に阿闍梨伝法並に後授記直授される(寺門灌頂脈譜)。
11月、智証大師坐像(御骨大師、中尊大師)二国宝に指定さる(文化財)。
11月、勧学院客殿、光浄院客殿、国宝に指定さる(文化財)。
12月、国有境内地一部を除き無償譲与許可あり(布達集)。
12月、長吏福家守明遷化(寺、布達集)。
長吏代務者に福家俊明推挙さる(布達集)。
12月、国宝光浄院客殿保存修理終る(文化財)。
1953 昭和 28 癸巳 3月、園城寺金堂、新羅善神堂、国宝に指定さる(文化財)。
3月、五部心観二巻、国宝に指定さる(文化財)。
6月、重要文化財智証大師坐像、保存修理終る(文化財)。
7月、九州水害により義援金をおくる(寺誌)。
8月、原爆記念平和祈願並に原爆犠牲者追悼法要を厳修、毎年の恒規とす(寺誌)。
8月、滋賀県多羅尾村水害により救援物資をおくる(寺誌)。
9月、台風十三号により山内倒木多し(寺誌)。
1954 昭和 29 甲午 2月、朝日新聞社共催にて東京日本橋高島屋において「三井寺秘宝展」開催。
はじめて黄不動尊、山外に出ず(寺誌)。
3月、黄不動尊、国宝に指定さる(文化財)。
1955 昭和 30 乙未 2月、観音堂水源確保のため、国有林(十三町七反)と園城寺境内地(五反八畝)と交換。この地に、大津営林署庁舎建設される(寺誌)。
4月、重要文化財保存施設護法善神堂屋根葺替修理終る(文化財)。
5月、原水爆の禁止決議を寺門宗宗会にて議決、各方面に決議書を送る(寺誌)。
6月、西国十四番札所本尊、如意輪観音坐像、重要文化財に指定さる(文化財)。
12月、長吏代務者福家俊明、第百六十二代長吏に就任す(寺、布達集)。
1956 昭和 31 丙申 2月、ハーグ条約により文化財集中地区として登録申請を決定。同条約の国会批准促進と同条約に抵触する米軍大津キャンプの撤退運動を起す(文化財)。
2月、竜泉院庫裡大改修(寺誌)。
4月、園城寺境内墓地で米軍演習を行ない墓碑倒壊せしため、米軍大津キャンプ司令官及び大津調達庁に厳重抗議を申込む(寺誌)。
6月、新羅明神坐像、国宝に指定さる(文化財)。
10月、国宝勧学院客殿並に重要文化財毘沙門堂保存修理(文化財)。
1957 昭和 32 丁酉 2月、梵鐘一口、重要文化財に指定さる(文化財)。
2月、滋賀県立産業文化館にて朝日新聞、延暦寺、園城寺共催にて、天台三祖入唐資料展を催す(寺誌)。
7月、九州大水害救援のため義援金托鉢を行なう(寺誌)。
8月、園城寺鐘楼、県指定有形文化財に指定さる(文化財)。
1958 昭和 33 戊戌 1月、米軍大津キャンプ返還による自衛隊の移駐はハーグ条約に抵触するため、自衛隊移駐の反対を決議す(寺誌)。
2月、国有境内地一部目的外使用のため、十二反八畝有償払下げをうく(寺誌)。
4月、重要文化財如意輪観音坐像、保存修理終る(文化財)。
1959 昭和 34 己亥 1月、滋賀県告示により園城寺唐院五棟、県指定有形文化財に指定さる(文化財)。
8月、二カ年にわたる園城寺国宝重文防災施設工事完了(県文化財)。
1960 昭和 35 庚子 3月、県指定文化財唐院大師堂、園城寺直営工事にて保存修理終る(文化財)。
6月、県指定唐院唐門、園城寺直営工事にて修理成る(文化財)。
1961 昭和 36 辛丑 3月、第二室戸台風により、国宝金堂、重文閼伽井屋、三重塔、一切経蔵、食堂等災害。後復旧工事終る(文化財)。
12月、重要文化財、大蔵経足利尊氏願経五九二帖四カ年にわたる保存修理終る(文化財)。
1962 昭和 37 壬寅 3月、県指定文化財、唐院長日護摩堂屋根葺替工事終る(文化財)。
3月、唐院灌頂堂災害復旧工事終る(文化財)。
1963 昭和 38 癸卯 3月、延暦寺大講堂炎上の際、宗祖智証大師像焼失につき、延暦寺の要請にて智証大師像を造像、大講堂に奉安す(寺誌)。
西暦
和暦
干支
事項
1963 昭和 38 癸卯 4月、三井古流煎茶道を復活、茶禅止観により教化活動を行なう(煎茶道)。
7月、従来の智証大師関係文書を一括して、智証大師関係文書典籍として国宝に指定さる(文化財)。
7月、法泉院客殿玄関修理(寺誌)。
1964 昭和 39 甲辰 3月、重要文化財園城寺塔婆、一切経蔵、食堂(釈迦堂)保存修理屋根葺替工事終る(文化財)。
9月、重要文化財、勧学院襖絵三十九面保存修理成る(文化財)。
11月、米駐日大使ライシャワー博士、ハル夫人と共に、フェノロサ、ビゲローの墳墓に献香す。
1965 昭和 40 乙巳 4月、法明院庫裡修理(寺誌)。
8月、京都村雲御所書院の一部を買収し、観音堂客殿として再建を計る(寺誌)。
1966 昭和 41 丙午 3月、国宝新羅善神堂保存修理屋根葺替工事終る(文化財)。
4月、国宝新羅善神堂唐門、直営工事として修理終る(文化財)。
9月、国宝金堂保存修理屋根葺替工事終る(文化財)。
12月、食堂庫裡大改修をなす(寺誌)。
1967 昭和 42 丁未 6月、園城寺鐘楼文化財となる(文化財)。
6月、園城寺唐院四棟文化財となる(文化財)。
6月、国宝智証大師関係文書転籍中に円珍疑問二巻文書目録一巻を追加指定さる(文化財)。
1968 昭和 43 戊申 1月、重要文化財大門(仁王門)、保存修理葺替工事終る(文化財)。
3月、国宝紙本墨画五部心観、保存修理成る(文化財)。
5月、十勝沖地震による被災地に義援金をおくる(寺誌)。
11月、国立劇場第三回声明公演「明治百年芸術祭主催公演」に参加、法華懺法を修す(寺誌)。
1970 昭和 45 庚戌 1月、国鉄湖西線敷設のため園城寺境内にトンネル掘削始まる(寺誌)。
2月、日本経済新聞社共催にて名古屋名鉄百貨店において「三井寺秘宝展」開催す(寺誌)
3月、「秘宝園城寺」編集につき、調査撮影始まる(寺誌)。
4月、湖西線トンネル掘削のため、光浄院水源地、大谷山水源、仏地院水源、御殿山水源、三井の閼伽井、竜泉院水源、法泉院普賢堂水源、玉泉院山水源いずれも断水す(寺誌)。
1971 昭和 46 辛亥 7月、国道一六一号バイパス、湖西線トンネルと併行、境内通過のためトンネル掘削を申請せるも、水源確保のため建設大臣、文化庁長官等に路線変更を陳情す(寺誌)。

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