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著者紹介

板澤幸雄

天台大師の理解にむけて

一、天台大師梗概

天台大師は、中国の陳・随の時代の人(五三八ー五九七)。普通には、天台宗の開祖であるが、慧文・慧思につぐ第三祖ともいわれ、大師号を天台大師、あるいは、智者大師という。法名は智・潁川の陳氏の一族として荊州華容(湖南省華容県)で生まれた。父の陳起祖は梁の高官であり、母は徐氏であった。梁朝末の乱世にあって、両親が相次いで没したため孤児となった。孤児となった大師は、十八歳のとき、果願寺法緒の下で出家した。やがて慧曠律師について具足戒をうけ、後、大賢山に登ぼって『法華経』『無量義経』『晋賢観経』を誦し、法等懺法(一種の三昧)を修した。ついて陳と北斉との国境に近い光州の大蘇山にいた慧思禅師の門に入り、七年間にわたって北地系の教学を学び、法華三昧を修めて豁然として大悟した。この体験をふつう天台大師の大蘇開悟と称している。

南岳に隠棲せんとする慧思のすすめで、大師は陳の国都の金陵(南京)に出て八年間とどまり、おもに瓦官寺で《法華経》《大智度論》《次第禅門》などの講説に専念し、江南の学問的仏教に禅観思想の新風を吹き込み、陳の宣帝をはじめ朝野の帰依者を集めた。

たまたま北周の武帝による廃仏が断行されたとの報に接し、淅江の天台山(国清寺)に隠棲して天台教義を体系づけること一〇年、五八四年(至徳二)に陳の永陽王に懇請されて下山し、陳の後主に迎えられて再び金陵に入った。大師四十八歳のときである。大師は金陵に出て、大極殿において《大智度論》《仁王般若経》を講し、時に僧正慧恒・僧都慧曠などは勅を奉じて難問を試みたが、これをことごとく消釈した。この年、光宅寺に住し、五八七年(禎明元)、ここで《法華文句》を開講した。

陳の滅亡に際しては、難を避けて金陵に出て盧山にいたが、五十四歳、随五九一年(開皇十一)に晋王広の招きに応じて菩薩戒を授けた。これによって王より智者の号を送られた。智者大師の称号はこれより始まる。

のちに、大師は南岳に詣でて師恩に報じ、さらに故郷荊州に帰り玉泉寺を創建した。

五九一年(開皇十三)、玉泉寺において《法華玄義》を講じ、翌年さらに《摩訶止観》を講じた。玉泉寺の説法を終えた大師はやがて揚州に帰り、《浄名義疏》を晋王広に献じ、五九五年(開皇十五)に天台山に帰った。この頃からあらかじめ死期を知って、諸弟子に《観心論》を口授したという。

開皇十七年十一月、また晋王広の請に応じて、山東石城山に到りたまたま病を発した。それによって大師は書を王に贈り大法を依嘱し、人をして法華経および無量寿経を唄誦せしめ、自ら十如、四不生、十法界、三観、四無量、四悉檀、十二因縁、六度等を説き、「波羅提木叉(サンスクリット語pratimoksa(‐sutra)に相当する音写、原語の語義解釈は定説を見ない)は是れ汝が宗仰、四種三昧は是れ汝が明導なり」(『唐伝』巻十七)を示し、門徒を遺誡し、端坐して遂に寂した。年六十。弟子等遺骸を奉じて仏隴に帰り、西南峰に葬る。

大師生前寺を造ること三十六所(或は三十五所)、一切経を写すこと十五蔵、仏像十万躯(或は八十万躯)、僧を度すること一千余人、伝業の学士三十二人、なかんずく、権頂、智越、智操等最もあらわる。翌年正月、晋王、大師の遺図により山下に寺を建て、大業元年登極するにおよび、勅して国清寺の額を賜うた。

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二、大師の著述

妙法蓮華経玄義
妙法蓮華経文句各二十巻
維摩経略疏十巻
維摩経玄疏
金光明経文句各六巻
仁王護国般若経疏五巻
観音玄義
観音義疏
金光明経玄義
菩薩戒義疏各二巻
金剛般若経疏
観無量寿仏経疏
阿弥陀経義記
請観音経疏各一巻
摩訶止観二十巻
釈禅波羅密次第法門
四経義各十二巻
法界次第初門六巻
四念處四巻
三観義第二巻
修習止観坐禅法要
六妙法門
天台智者大師禅門口談
観心論
釋摩訶般若波羅密経覚意三昧
等三昧行法
法華三昧懺儀
浄土十疑論
五方便念仏門
禅門章
禅門要略
歓心食法
歓心誦経法
天台智者大師発願文
普賢菩薩発願文各一巻
(以上現存)

智度論疏二十巻
弥勒上生経疏
釈一切経音義
般舟行法
雑観行
入道大旨
七法便義
七学人義
一二三四身義
法門儀
四悉檀義
如来量義
請観音行法
南岳思禅師伝
般若玄論
金光明懺法
修三昧常行法
歓心遊心口決記各一巻
(以上散供)

著述については、概ね門人である潅頂の筆録せしものにして、大師の執筆にかかるものが少い。またこの中に観無量寿仏経疏、金剛般若経疏、浄土十疑論等は真偽未詳ともいわれる。また散供書目中にも後人の撰述にかかるものが少くないという。

三、天台大師伝の資料

天台大師の資料には、「天台大師のみの伝記と注釈」と「諸伝内の資料」と「別伝以外の大師を主とした資料」等にわけられるようであるが、そのうち「天台大師のみの伝記と注釈」を、京戸慈光氏の著書『天台大師の生涯』(レグルス文庫38)の巻末に付されている資料を参考に記さしていただく。

(一)随天台智者大師別伝(一)随・潅頂撰(六〇五)=大正新修・仏教全書

(1)智者大師別伝新解(二)=妙法院
(2)別伝幻々箋 詳解餘説(二)霊空=寛永寺
(3)随天台智者大師別伝句読(二)可透撰
(4)天台智者大師別伝考証(三)忍鎧=寛永寺
(5)天台智者大師別伝翼註(二)敬雄=寛永寺
(6)智者大師別伝註(二)曇照=卍続藏経
(7)智者大師伝論(一)梁粛(『統記』巻四九=大正新修・卍続蔵経)
(8)天台智者大師伝論(一)梁粛・敬雄註=寛永寺
(9)天台智者大師別伝輯註(四)曇照註=正法院

(二)天台山国清寺智者大師伝 唐・顔真郷撰(七八四)=仏教全書

(三)智者大師一期次第(一)=正法院

(四)天台智者大師紀年録(一)如海=生源寺

(1)天台智者大師紀年録詳解(二)如海篇=大谷大学

(五)天台大師略伝(四)慈本撰=大正大学・方広寺・護国院・西教寺・龍谷大学・大谷大学

(六)天台智者大師伝(三)=明徳院

(七)天台智者大師一代訓尊記(二)日詔=龍谷大学・西来寺

(八)天台大師略伝(四)妙空=大正大学

(九)天台智者大師伝略(一)慈薫=正法院

天台大師の伝記資料については、上述せるごとくこれをもってとどまるものではなく、一層多見しなければならない。

以上、この小稿で、天台大師の梗概と、著述・伝記資料についてふれてみましたが、勿論これらの内容は、天台大師の大きさからみればまさに九牛の一毛にしか過ぎない。なお天台大師を理解するには、教学の面を多く考究せねばならないが後日を期したい。


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