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星宮智光


不動明王の話

不動明王の話(一)

不動明王は、観音・地蔵両菩薩と並んで日本人にもっとも親しまれているほとけさんである。

その霊験利生を書きとめた記録資料は数えきれないほど多い。このなかで、宗祖智証大師円珍の不動明王霊験の記録はもっとも古い。つまり日本における不動明王信仰は大師をもって先駆とすると考えられる。

智証大師円珍の伝記を読むと、大師の人生の重要な場面で不動明王を感見しその霊験を蒙っている。最初は比叡山において十二年の籠山修行の最中、石室で禅観を修していた時で、金色の不動明王が影現し大師に向かって「仏法を伝うべき汝を譲らん、わが像を描いて礼拝し三密を究め、衆生を済度せよ」と告げたことである。その不動明王の尊容は金色に輝き、手に利剣と三昧索を持ち両眼鋭く法界を洞見し、足は虚空を踏まえ、威徳無限であった。大師はただちに画師の空光に語りその尊容を画かしめ、これを朝夕に礼拝したという。この空光の「金色不動明王画像」は今も秘仏として現存し、智証大師流伝法潅頂の際の本尊とされている。

つづいて、承和七年の七月十六日の辰の刻に再び明王の影現があり潅頂の大法を授けられ、「大日如来の智水は一切の罪業を浄め仏位を継がしめる」という霊告があった。大師はただちに不動三昧に観入して、金色不動明王を尊像を刻み、念持の本尊とされた。この尊像も現に唐院御廟に大師尊像とともに祀られている。

また、伝寿三年八月十四日、入康求法の途中、暴風によって船が難破しそうになった時、大師の祈念に応えて金色不動明王が出現し、無事に唐国に到着することができた。

さらに、唐の大中九年二月、蘇州で巡錫中に病にかかり、徐公直という篤信者の家で養生していた時も、夜間に金色不動明王が大師の枕元に影現した。

こうして、大師は人生の危機に直面する度ごとに、金色不動明王の影現にあずかり、その霊験利生を蒙ることができたと伝えられる。

いま不動明王の霊験利生の物語として、もっとも有名で、もっとも古い例として智証大師の場合を挙げたが、このような霊験物語は枚挙にいとまないほどである。

ところで、後世わが国でもっとも親しまれることになった不動明王信仰は何時ごろから盛んになったのか。実は、日本における不動明王信仰の先駆は智証大師の上記のような事跡なのである。不動明王信仰の古くて顕著な例としては、比叡山無動寺の建立和尚相応の葛川瀧行における不動明王の出現が挙げられる。相応和尚は叡山回峯行の開祖と崇められており、この回峯行の本体は不動三昧行というべきである。相応のころは修行の形態がまだ発達していなかったが、その原形は生まれていた。この相応和尚の不道明王信仰は、実は叡山沙門の先輩ともいうべき智証大師の不動明王の影響のもとに育てられてきたと考えられるのである。

一方で、真言宗では日本における不動明王信仰の先駆者は弘法大師空海であると主張している。たしかに、弘法大師の入唐請来目録を見ると不動明王に関する儀軌や修法等がふくまれている。それにその選述類にも五種類ほどの不動明王関係の著作がある。そのうち二種は真撰を疑われるが、『無動尊瑜伽成就法軌法品』、『不動明王念誦次第』、『十九種相観想略頌文』の三部は真筆と考えられ、この点から、弘法大師は早くから不動明王信仰に注目し、その修法等についても研究していたことは認められる。しかし、不動法を実践したという形跡はなく、不動信仰を教観両面から確立し実践した先駆者は智証大師ではなかったかと考えられるのである。

後世、智証大師門流の中から、すぐれた不動行者が輩出されてくるのは、こうした事情からであった。わが国における不動明王信仰の成立と展開は、智証大師門流によって導かれ、やがて天台密教、真言密教の中に深く浸透していったのである。とりわけ、不動明王はインドにおける発生いらい「山岳の明王」と呼ばれて磐石の上に居り、その由来によって日本の神仏習合の宗教である修験道で尊重されるようになり、深く民衆信仰に結びついていった。修験道の本尊は本来は役行者(神変大菩薩)蔵王権現であるとされるが、一方ではこれをしのぐほどに不動明王信仰は修験道では盛んとなっている。

なぜ、このように不動明王信仰は盛んになったのであろうか。それは教令輪身であるからである。如来には三種の輪身があるとされる。

如来は自身の聖位に留まっているので自性輪身であり、菩薩は自利化他につとめるので正法輪身である。しかし救いがたい極悪の衆生のためには教令輪身という恐怖奇怪な姿で如来の慈悲をたくましく実行する明王が派遣される。

不動明王は、大日如来が極悪深重の人びとを救うために変身した方便の教令輪身である。不動明王は憤怒をもって劣悪の衆生のため深重の罪悪不幸を滅ぼす慈悲の如来にほかならない。こうして不動明王は多くの劣弱な衆生のための如来として断えず慈悲を行じているがゆえに、人びとの強い信仰をあつめているのである。

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不動明王の話(二)

内は慈悲、外は忿怒の不動明王

不動明王はあのように忿怒の奴僕の姿をしているのに、どうして多くの人々の信仰を集めているのであろう。それは大日如来の教令輪身であるからである。

宇宙全世界の主宰者ともいうべき大日如来の本性は智慧と慈悲であるが、その衆生救済の活動のために三輪身をもって現われる。三輪身とは、一に自性輪身で自分の悟りのままに現れる位で如来の姿をとる。二は正法輪身で衆生教化のため仏法を説く位で菩薩の姿で現われる。三が教令輪身で教化に従わない罪深い衆生を何とか救いとろうとするために働く位で、忿怒の明王の姿をとる。不動明王は大日如来が罪悪深重の人びとを何としてでも救わんとして現われた方便身であって、本来は両者は一体である。

不動明王は外に忿怒の姿をとるが、内心は慈悲に充ちている。『仏説聖不だいえ動経』には初めに「その時大会にひとりの明王あり。この大明王は大威力あり」とあり、つづいて不動明王の大悲、大定、大智の三つの徳が説かれている。

大悲の徳のゆえに青黒の形を現し、
大定の徳のゆえに金剛石に座し、
大智慧のゆえに大火焔を現じ、
大智の剣をとって貪瞋癡を害し、
三なわ昧の索を持って難伏の者を縛す

怒りの極致を示す青黒の肌、蓮華座ならぬ堅い岩の上、あらゆるものを焼き滅ぼす焔炎。崇高清浄なる仏徳とは正反対のこうした姿をもってその広大慈悲の三徳が表現されているところに不動明王の衆生救済力の偉大さを見ることができる。如来は悪を持つがゆえに悪を自在に救うことができる(天台の如来性悪説)といわれるが、まさに不動明王は教令輪身として最下醜悪にあるがゆえに最悪最愚の者を残らず救いとるのである。多くの人びとが明王を信慕するのは当然であろう。

不動という尊名については、一行あじゃり阿闍梨の『大日経義疏』には「不動とは真に清らかな菩提心をもつので、この名を付けた。不動明王は悟りの心である一切智智そのものである。またこの心は大力威猛であり、永久にあらゆる煩悩を断ずる」とあり、その悟りの心のゆるぎないことから命名されたことがわかる。名は体を表わし、ビルシャナフンヌ毘廬遮那忿怒とも呼ばれる。このほか、アーシャラ『白宝口抄』には梵語で阿遮羅、漢語では無動尊、真言尊、不動大力者、使者等十一種の名が挙げられている。密号は常住金剛と申し上げる。不動明王の心、すなわち三徳を外に現わす尊形について見ると、『大日経義釈』には、つぎのように描かれている。

つぎに不動明王を描け。如来の使者である。右手に大慧刀を持ち、左手に絹索を持つ。頭に髻があり髪は左の肩に垂れる。細かく左目を閉じ、下の歯で右辺の唇を噛む。左辺の下唇はやや外に出す。極めて恐しい忿怒の形相をしている。石上に坐し、額に水波のような皺があって、童子形である。その身は卑しい姿をしている。

不動明王の尊形は胎蔵、金剛両界の曼陀羅図に見ることができる。現図胎蔵曼陀羅を見ると「持明院」の部分にくえ描かれている。金剛界九会曼陀羅ではごうさんせえげこんごうぶ降三世会の外金剛部の隅に見られる。もともと明王は男性であるはずなのに、ここでは女尊として描かれている。

これらを見ても不動明王は醜悪忿怒の姿が強調されているが、こうした傾向は中国において善無畏三蔵や一行阿闍梨以降に盛んになった。これが日本にも影響して不動明王の基本尊形が成立したのである。

ところで、智証大師の感得した金色不動明王を拝するに、その尊形は以上の説明とはずいぶん違っている。『大日経』や後世の淳祐阿闍梨の『不動十九観』とも大いに異なる。両眼を開き、頭髪は巻毛で空中に立つ、聖者の印とされる左肩からの衣布もない。どうしてか、いろいろ考えられる。密教行者は師僧の教授を絶対的なものとして受法することからみて、おそらくそのような伝法を叡山修行中に受けたとも考えられる。しかし私は、大師の独自の主体的な明王感見であったと考えるのである。

不動明王は多くの人びとの信仰を集めてきたから、その信仰の形も内容もまたさまざまに発展してきたのである。

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