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星宮智光


天台のさとり

天台の「さとり」 (その一)

「円頓とは、初めより実相を縁ず、境に造るにすなはち中(道)にして、真実ならざることなし。縁を法界に繋け、念を法界に一うす、一色一香も中道にあらざることなし。

己界および仏界、衆生界もまたしかり。陰入みな如なれば苦の捨つべきなく、無明塵労即ちこれ菩提なれば集の断ずべきなく、辺邪みな中正なれば道の修すべきなく、生死即ち涅槃なれば滅の証すべきなし。苦なく集なきが故に世間なく、道なく滅なきが故に出世間なし。純ら一実相にして実相のほかさらに別の法なし。法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づく。初後をいうといえども二なく別なし。これを円頓止観と名づく」(「摩訶止観」)

これは、いわゆる「円頓章」といわれるもので、仏教のあらゆる修行の仕方のなかでも、もっともすぐれた修行方法とされる天台の摩訶止観、すなわち円頓止観をもっとも簡単に説明した文章である。ここには、大乗仏教のさとりの内容が要領よくまとめられており、天台系のどの宗派においても、僧俗ともに朝夕の勤行のおりには必ず読誦しているのは適当なことで、かつ大いに奨励されるべきであろう。

この文章は、もとは六世紀末に天台大師智が講説し、章安尊者灌頂がそれを筆記してなった「摩訶止観」の序章とでもいうべき箇所に述べられているものであるが、このなかの「一色一香も中道にあらざることなし」とか「無明即菩提」「生死即涅槃」という思想は、大乗仏教が窮めたもっともすぐれたさとりである。天台は華厳とならんで、大乗仏教の哲学的発展の可能性をすべて開花させたものであると讃えられているが、そのはじめは、法華経の行者たる天台大師の天台山中における激烈な止観の実修によって体得されたさとりにおこるものであって、華厳がたんなる哲学的な思索の所産であることと異なるところである。この大乗仏教のさとりを天台大師はいろんな角度から説明している。教理的には「諸法実相」とか「十界互具」とかいい、また止観の実践という面からは「一念三千」、「一心三観」などとよんでいる。この他、いろいろと説明する観点から、ことばはさまざまあるが、その内容をいえば、「諸法は実相である」つまりあらゆるものごと、どのような生きかたもすべてそのまま本性を発現している真実のすがたであるということである。まさにものごとはすべてあるようにあるしかないのである。だから中国天台の中興者であり天台の正統思想を守りぬいた第一の人であられた知礼尊者なども「当体全是(ものが存在している、そのままのすがたがそのもののすべてをあらわしている)」ということを強調しているわけである。

ところで、よく仏教では「無」とか「空」とかいうが、これはなにも「ない」とか「空虚」とかいう意味ではなく、ものごとのありかたを説明しているのである。それは、あらゆるものがそれ自体として孤立独立して自立しているものではないということを説明しているのである。だから「無自性(すべてのものに実体はない)」ともいわれる。これは、もとは釈尊の菩提樹下のさとりにはじまることはいうまでもないが、その時釈尊は「あれあるによりてこれあり、これあるによりてあれあり」と自分の体得したさとりを表現したといわれている。「縁起」の思想がこれであり、だから仏教においては「空」というのも「無」というのも、この釈尊のさとり、「縁起」の思想から由来するものである。

天台のさとりの内容も同じである。天台の思想の根底には、釈尊のさとりとのつながりがあるのである。『摩訶止観』の冒頭において、いろいろの相承が説かれているのは、そのためである。天台は実相論であって、縁起的考え方が稀薄であるなどとよくいわれるが、それは表面的な分類であって、むしろ実相論というのも、すぐれた意味での縁起論であることを見のがしてはならない。

さて、天台のさとりをもっとも特長的に説明している「空仮中三諦円融」によってみてみよう。「一境三諦」、「一心三観」というのも、この空・仮・中の三諦円融の論理によってなりたつものである。

さきにも述べたように「空」というのはものが縁り由ってあり、そのものがそのものとしてだけあるということを超えているという、そういうありかたである。だから、その当処において、ものがないとか虚無ということではない。さながらに種々様々の事情事態においてあっている。このところを抑えて「仮」というのである。しかし、いってみれば「空」といっても「仮」といっても、それはそれととりとめ、あたかも実体あるものをとらえたことになる。すべてのものは本来とりとめられるような実体的ありかたはしていないはずである。したがって「空」といっても「仮」といっても、もののありかたをそのままに伝えているとはいえない。そこで、この当処のありのままをそのあっているとおりに伝えようとして「中」というのである。

もの(人)があるというとき、そのものがある場所は、一切それととりきめることを超えたところに、それととりきめられないように存在しているわけである。それが「中」という意味において示されるのであるが、もちろん、そこはまた「空」なるありかた、「仮」なるありかたにおいて存在しているのである。「中」の当処において「空」や「仮」のありかたが別々に存在しているのではなく、また「空」の当処に「仮」や「中」のありかたが没しているのでもない。もののありかた、つまりその存在の当の場面である各自の現実のありのままのありかたが、そのままに「中」においてあり、「空」においてあり、「仮」においてあるのである。この当処がそれととりとめられる一切の相待的存在者の範囲を超えている。その当のありかたが「空」であり、しかも「ない」のではなくてさながらにあり、ありのままにあるのが「仮」であり「中」のありかたである。したがって「空」といっても「空」といい切るのではない。如実のありかたは、「空」でないのではないが、同時に「仮」であり「中」である。だから「空」といっても「仮」を具え、「中」を具えていることになる。ここを「不但空」とか「不但中」とかいい、とくに「即空」とか「即仮」、「即中」というのである。いずれにしても相待を超えた絶待の、ということは相待を包みこんだ絶待の、ありようを、意にこめていっているものである。

空仮中の三諦円融の論理は、きわめて難解であるが、わかりやすく説明すれば以上のようになろう。

「仏の成就したまへるところは、第一稀有難解の法なり。ただ仏と仏のみ、いましよく諸法実相を究尽したまへり。」これは、いうまでもなく『法華経』の方便品のことばであるが、この意味は仏のさとりの内容は深く高くして、凡夫の容易に理解し得るところではない。それは、ただ仏だけが解りあうことができるということである。「稀有難解の法」と嘆じているのも、この辺の機微を指し示しているのである。

天台においても、さとりにおいてとらえられたものの如実のありようを「妙」とのべて、「妙」とは絶言絶思、不可思議のありかたであるといっている。これを、また「絶待」ともいう。もちろん相待と対比されるような、いわば相対比された「絶待」というのではない。さとりの境地というものは、したがって言葉による概念で表現することは不可能である。言語道断とか不立文字とかいわれるのはこのためで、『摩訶止観』の中心部分である正修止観章においては「玄妙深絶にして識の識るところにあらず、言の言うところにあらず、ゆえに称して不可思議の境となす」とのべている。

どんな宗教も同じであるが、宗教の本質的な特長は、日常的な価値や考え方を逆転させて、それを超越することである。仏教で、「出家」とか「出世間」というのはこのことをいっている。「無我」というのも同じことで、いわゆる「我」をとおして生きぬくのが凡夫の日常普通の生きかたであるが、このような我執我見を捨てて、とらわれなく生きることが「無我」的生きかたである。いったい「我」などというものは実在するのかといえば、たんなる幻化にすぎないものであって、鏡にうつる映像みたいなもの、これに固執すれば必ず不如意におわるのである。ここに人生の苦悩の原因があるとみるのが、仏教である。釈尊は、ものみな「縁り由ってある」という「縁起の法」をさとり、「我」を否定した。これが「無我」である。最近の宗教哲学において、宗教の特性を「超自然」とか「他者性」「拒否性」ということばで説明しているのも、さとりの世界が凡夫の世界を超越して絶対異質であること、凡夫からみれば全く不可思議境であることを指摘しているのである。

このように、三諦円融の弁証法的論理によって示された天台のさとりの世界も、容易に』近づけるところではない。それを体得し、その不思議の境地に住するには、それなりの努力が必要となる。この努力が仏教の修行であり、そのもっともすぐれた方法といわれているものが『摩訶止観』によって示される、いわゆる「十乗観法」である。天台止観は、すべての仏教修行のなかでもっとも体系的で、精密なしくみになっており、いろんな宗派の修行方法もみな天台止観から発生しており、それらの規範となっているのである。

天台では、学問のみをもって事足れりとするものを「文字の法師」と呼んで軽蔑する。しかし、学解を否定するものを「暗証の禅師」として、また斥けるのである。天台のたてまえは「教観双美」あるいは「解行一致」ということである。学問は案内地図のようなものであるから、いくら道順を悉知していても目的地に達することはできない。しかし、この地図がなければ、とんでもないところにいってしまうだろう。このようにして、「解行一致」ということが強調されるのである。天台系の宗派では「論議」が尊重されながらも、必ず修行を怠らないとはこのたてまえにもとづくのである。

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天台の「さとり」 (その二・天台の修行の特色)

仏教は八万四千の法門をもつといわれているが、そのなかでもっとも組織的な修行方法として讃えられている天台止観は、教観双美をもって特長としている。教理をたよりに観行をおこし、観によって教をたしかめてゆく。中国天台の中興として仰がれる荊溪尊者湛然(唐中期)は「理によって解を生ず、ゆえに名づけて智となす、智は解行を導き、行は解理に契ふ」とのべて、実相の境と智と行とは一致しなければならないと強調しているが、この教観双美、解行一致こそは、天台の修行(止観)の構造の特色であり、比類をみないものである。

教理の理解にいかに詳しくとも、それはいわば他人の金銭を算えているのに等しく、身につくことはない。いわば登山地図を百読しても山を知ることができないのと同じである。しかし教相の理解もなく修行をしても、真のさとりに達することは困難である。のみならずその深浅についての自覚もできない。せいぜい増上慢に堕することであろう。教相というのは、登山地図のようなものである。登山者にとっては必須のものである、よき登山者の手にわたって、はじめて登山地図は効力を発揮し、山の全貌をあきらかにすることができるのである。

このように教理と観行とは鳥の両翼のごとく車の両輪のごとく助けあっているものである。天台において、修行を重視しながらも、さかんに論議をおこなって教理上の鍛練をおこたらないのは、このためである。

天台の教観について詳しく知ろうとするならば、できれば天台三大部(法華玄義、法華文句、摩訶止観)を閲読実修すべきである。このうち、前者は主として教相についてのべている。後者『摩訶止観』では、止観の実修について精緻をつくした説明がなされている。『摩訶止観』十巻は、天台大師が隋の開皇十四年四月、荊州の玉泉寺において講読したものを、弟子の章安尊者灌頂が筆記してまとめたものである。この書の序章に「この止観は、天台智者が己心中に行ぜしところの法門を説きともふ」とのべてあるように、天台山における激烈な修行の結果体得したさとりの境地とそれにいたる方法を、止観の実修という立場からあきらかにしたもので、一つの修行体験談である。しかし、仏教に法門多しといえども、これほど体系的な修行論を展開したものは、他にみられない。仏教のあらゆる修行方法を「止観」の立場から体系的に位置づけをし、いわゆる「五略十広」という組織にしたがって説明をくわえているのである。「止観は明静なり、前代にいまだ聞かず」とあるように、これまた大師の体験的独創であり、後世の修行論の多くがこの影響をうけているのである。

ところで、天台止観といっても、それには三種類ある。『摩訶止観』序章に「天台は南岳より三種の止観を伝えたまえり。一には漸次(止観)、二には不定、三には円頓なり。みなこれ大乗にして、ともに実相を縁じ、同じく止観と名づく」とのべているとおりである。そして、この三種の止観は、どれがすぐれているというものではなくて、修行者がみずからに、もっとも適合すると思われるものを選んで、これを実修すればよいというのである。行相はことなるも、そのさとりの内容は三者とも同一である。だから、荊溪尊者は「頓人は行解ともに頓、漸人は解は頓で行は漸、不定の人はその解は頓にして行はあるいは頓あるいは漸につく」といっている。

なお、漸次止観については『次第禅門』という著作にくわしく、また不定止観については『六妙門』、そして円頓止観については『摩訶止観』に詳しく説かれている。そして、一般に止観というとき、それは円頓止観をさしているのであり、これからあきらかにしようとしているのも、これである。そして、朝夕に読誦している、いわゆる『円頓章』は、円頓止観のことを端的に要約したものである。

さて、禅と止観について、教学上、両者は別個のものであるとか、同じものだとかいう議論もあるが、同一のものの両面と理解していただきたい。物指にたとえればよい。同一の物指の目盛のついている表が天台止観で、なにもない裏が禅である。禅宗は不立文字、教外別伝をたてまえとして、禅の思想についての教理的な説明はしない。これにたいして、この禅の思想に整然とした体系づけをし、禅のさとりの内容に大きな目盛をつけ、さらに小さく詳しく目盛をほどこして、あたかも物指の表をみせるような方法で禅を教えているのが、天台止観の体系なのである。禅も止観も内容は同一である。天台大師著の『次第禅門』は、名のとおり「禅」をもって仏教の修業を体系づけているのである。それが『摩訶止観』になって「止観」をもって修行を体系化し説明するように発展してきた。そして、両者はどこで異なるかといえば、天台止観の体系によって禅を修するとき、教観双美というたてまえから、つねに確かに合理的に有効に修行を深めてゆくということであろう。それは登山地図によって、山道を登攀してゆくようなものである。この点、禅宗においては、ややもすれば「暗証の禅師」に堕しかねないという危険性があり、また迷路に、はまりこむこともありうるのである。

ついでながらふれておくが、坐禅と止観についてである。坐禅というのは、端坐してする禅行ということであって、禅をするときの行儀(修行の形式)である。修行の形式といえば、天台止観でこれを論じているのは四種三昧である。止観を実修するときの行儀は、常坐(端坐)、常行、半行半坐、非行非坐の四種類にまとめられるが、これもどれがすぐれているかということではなく、あくまで修行者の機根(能力や性格)によって、適当な行儀をとればよいということである。

ここで注意しておきたいことは、天台止観では、あくまで行者自身の機根をつねに尊重し、その環境にもっとも適した方法をつねに勧めているということである。整然とした体系をうちたてながらも、つねに現実に即した処置ということを強調していることである。

さて、天台においてはどの行儀をもっとも勧奨しているかということであるが、あくまで修行者自身の環境、能力によってことなるのであるが、実相論のたてまえからいえば、いつ、どこにおいても、どんなふうにしてでも止観はできるということになる。すなわち非行非坐三昧ということになる。食事をしながらでも、散歩しながらでも、労働しながらでも、それはできるはずである。では現実に本当にそのようなことは可能なのだろうか。天台大師は、一応はそれを認めつつもやはり相当に困難で、なかなか効果は期待できないと反省している。そして、できれば他の三つのどれかを選ぶように勧めている。

しかし、さらによく『摩訶止観』を読んでみると、その講説の中心である「正修章」の心を観じる方法をのべるところは、端坐の行儀の場合を例にしてのべているのである。ここから、やはり天台大師は止観の実修においては、論理的には非行非坐で、どんなときにでも止観はできるといっても、実際的には坐禅形式(常行三昧)の止観を尊重し、他にもこれをすすめていたと理解されるのである。そういえば、天台宗系の祖師像はすべて坐像形式になっており、伝教大師、智証大師の御坐像などは瞑想端坐の典型をしめしているのに気がつくのである。

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天台の「さとり」 (その三・止観の条件と観心のしかた)

天台止観は、解行一致をもって特長としている。その概要は、前二十五方便を準備し、四種三昧のうちの自分とってもっとも適当と思われる行儀を一つえらんで、これを助縁として、陰入界等の十境にたいして、観不思議境等の十乗の観法を修するというのである。しかし、これらはとくに形式的にあらたまったものではない。止観の実修も実相論にその根拠をもつ以上、修行者は、いつどこにおいても、その能力性格に応じて、つねに止観成就することができるわけである。したがって、止観のしくみは、あくまでも修行者の止観実修とその成就の便宣によせているのである。このように、あくまでも修行者中心にしくまれているというのが、天台実相論にたつ止観の重要なところである止観を効果的に実修するには、実際には、いつどこにおいてもという具合にはいかない。そこにおのずと止観のしやすい環境なり条件、また身体の状態というものが求められなければならない。この止観のしやすい環境、条件を、天台大師はみずからの体験から指摘し整理したものが、前二十五方便である。したがって、行者は必ずしもこの二十五の条件を準備しなければならないわけではないが、そなえれば便宣であろうということになる。

また精神と身体は不可分といわれるように、止観は約心主義すなわち心のありかたを転回するということに観法の中心があるが、けっして身体を軽視することはできない。ここに身体のおきかたが、止観実修上の重要な関門になってくる。端坐、行歩、半行半坐、そして行住坐臥といったぐあいに、それぞれの行儀から、自分にふさわしいものをえらんで行者は止観する。この身体のおきかたについて、整理されたものが四種三昧である。

修行には、それにふさわしい環境や条件が必要である。天台止観では、二十五の加行方便をあげている。この二十五方便とは、つぎのとおりである。

まず五縁を具すことである。五縁とは、戒を清浄にたもつこと、衣食が適切であること、山間の静処に住すること、雑務はすべて捨てさること、そしてすぐれた指導者、同志をうることの五である。つぎは五欲を呵止する。行者の五根が眼のまえにある五塵の境にとらわれて、色、声、香、味、触の五欲を生ぜるものをおさえ捨てることである。第三は五蓋をすてる。すなわち貪欲、瞋欲、睡眠、掉悔、疑惑という煩悩心を棄捨することである。以上の十五は修行者の外的環境にかかわる条件を準備することであるが、つぎの十は行者の内的環境に関する条件の整理である。第四は五事を調える。食、眠、身、息、心の五事を調節して修観がうまくゆくようにする。第五は五法を行ずることである。前の二十が整っても行者自身の勇猛な心がなければ駄目である。よって行者の善心を発動して、欲、精進、念、巧慧、一心の五法を行ずるわけである。とくに、この行五法は加行方便の焦点であるといわれる。

この二十五の条件は止観の遠方便ではあるけれども、しかしたとえば調身によって豁然と実相の理を体現できたならば、それでよいわけであって止観の行者の発悟は一概には定めがたいことは、先述のとおりである。 身体のおきかた、すなわち行儀については四つにまとめられている。四種三昧がそれである。これも天台大師が円頓止観の実修の体験からいろんな禅修の立場を整理したものである。一つは常坐三昧で、坐禅の形で九十日を一期におこなう。二は常行三昧で、もっぱら繞旋行道し歩々に阿弥陀仏の名号を称するもので、やはり九十日を一期とする。三は半行半坐三昧である。これは方等三昧と法華三昧との二種ある。あるときは立ちあるときは坐すというやりかたで方等は七日、法華は三十七日を一期とする。さいごの非行非坐三昧は、とくに行儀を一定にさだめず、日常茶飯資生のなかでおこなうものである。したがって随自意三昧ともよばれている。ここでは前の二十五方便も必要としないのはいうまでもない。実相論のたてまえからいえば、本来この三昧こそが特長的なものであるはずである。いつどこにおいても、だれによってでも止観は成就されなければならないはずだからである。しかし天台大師によって止観実修に際しては、できるだけ前二十五方便ならびに前三の三昧を助縁とすべきであると観修されているが、この非行非坐三昧のみは観修されていない。これは行者の心理的経験的な反省によってとらえた立場であって、あくまでも行者が効果的に止観を成就するというねらいがみられる。

『華厳経』に「心はたくみなる画師の種々の五陰を造るがごとし。一切世間の中、心より造らざるはなし」と説かれているが、天台もまた唯心主義の立場をとる。そして観法においても、この心をとらえて、「心はこれ不可思議境なり」と観ずるのである。心といっても、特別のものではなく、日常あたりまえの意識のことであって、一瞬間にふと念頭に浮かんだ陰妄の一念のことである。こうした意識は、いつもわたしたちに去来しているものである。このように日常近要であるがゆえに、公安を課されるまでもなく、一念はとらえやすい。

さてこの心をとらえて、いかような観法をとるかといえば、いわゆる四句推検という方法である。「鐘の音はどこから生じたか。鐘か、棒か、両者からは、また両者とは無関係にか」と推究して、その不可思議をさとるといった方法である。たとえば一念三千について三千の法は(1)心に具するのであろうか、(2)縁に具するのであろうか、(3)心と縁の両者に具するのであろうか、(4)心と縁を離れているのであろうか、というように、自生、他生、共生、離生の四性四句について推究してゆき、結局四性の計はあやまちであるとする。この推究をあらゆる角度からおこなうことによって、分別的思考を徹底させ、その矛盾を露呈させる。それによって分別を棄捨したとき、機熟をまって深い不可思議実相の境が彼岸から示現してくることになる。

この機微は『摩訶止観』正修章の観不思議境を説くところに簡潔にのべられているので、つぎに引用して観心の説明のしめくくりにしたい。

「それ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り。若し心無くんば而巳なん。介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。相、物の前に在らばまた遷されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし。もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す。」

そして、この不可思議境とは、縁起の場所であり、実相のところである。まさに、この境位に身を処することこそが、円頓章が表現するところの 煩悩即菩提というさとりの世界なのである。

ところで、天台止観は、禅などに比較すればどのようにみることができるか、以下いささか蛇足ながらふれてみたい。

仏教諸派のなかでさまざまな修行論が展開されている。修行の形態としていろいろの形をとっているが、人為的な工夫を最小限に止める行きかたを巧みに活かして、そのまま組織立てたと見なされるものは曹洞風の黙照禅である。非行非坐三昧が、加行方便にこだわらず、また行儀も問題にしないところは、ややこれに近いといえよう。もちろん黙照禅にも結跏趺坐あるいは半などの姿勢のとりかたをはじめとして、種々の工夫を設けてはいるが、その中心は只管打坐にある。一切の人為的努力を中心した心の底に、一つの悟境を把握しようとする。そこでは、心を鎮静せしめる方法として静かに待つという態度がとられる。行の工夫としてはやや消極的な受身的すぎるように思われる。自然のままに心をまかせていて、ついに雑念を払った無想境に入ることはむずかしいだろう。天台が非行非坐三昧をとくに勧めない意図がこのあたりの機微にあるように思われる。意識集中を工夫の根幹とする行が少ないのは、こうした心理的な事情によるのである。曹洞禅に対立する臨済風の看話禅は、積極的に行を工夫しているといえよう。心を自然の鎮静に任せる代わりに、修行者に一定の問題を課する。公案がそれである。「隻手の声をきけ」とか、「狗子仏性ありや」というような、概念的な命題に似た外観を示しながらも概念分別では解決できないようなものである。行者は公案を知的に解決しようとするが、なかなか解けない。疑いが生じる。疑いはさらに心を公案に向けて追いこむ。

こうして心は公案に集中しきった状態の絶頂に押しあげられ、機が熟すと心が展開して、深く新しい体験の世界が顕現してくる。見性、悟りである。数息観とか、観経に記されている日想観、水想観等の十六観法、唱題、念仏なども行の積極的工夫によるものである。そして天台の止観もまたこの典型であることは、前述したことによって理解しえたと思う。しかも天台大師の体験を中心にして組織されていて、修行の指南としては仏教中の随一である。

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